心の風景

タグ:英霊

毎年、夏になるとシナの犬HKが、日本を貶める偏向した歴史番組を流すのが恒例となっていますが、南京大虐殺やインパールなどを流しても、シナの蛮行により多くの日本人(半分くらいは朝鮮人)が犠牲となった通州事件などは取り上げられたことがありません。

保守層の中には、中国人が嫌い朝鮮人が嫌い韓国人が嫌い在日が嫌いという方が少なくありません。

しかし、好き嫌いの前に「事実」は「事実」として知識として覚えておいてほしいことがあります。

たとえば、通州事件を知っていても日本人が惨殺されたことしか知らない方がいますが、実際には半分ほどは朝鮮人の方で、そのほとんどが日本人とうまく生活をしてきた日本人のような方たちです。

嫌韓や嫌中がいけないといっているのではなく、ひとくくりにしてしまわないでほしいのです。

保守層の中には「英霊に感謝!」という方が多いのですが、その英霊の眠る靖国には戦争で亡くなった日本人だけが祀られているわけではありません。

対象者は主に「戊辰戦争~第二次世界大戦、そして戦後、東南アジアなどの独立戦争に参加した人々」ですが、準軍属とみなされる方も多数祀られています。

また、戦時徴用されて軍需工場で働いているときに空襲を受けた女性や満州開拓に携わった人、沖縄戦に巻き込まれた一般人、沖縄ひめゆり学徒隊、真岡郵便電信局事件で自決した女性も含まれています。

そして、朝鮮兵士ではない陸軍士官学校を卒業して士官に任官した者、旧大韓帝国軍から朝鮮軍人として日本陸軍に転籍した者、そして、戦争末期1944年に一般兵士も徴兵制で登用され日本統治下で軍務に関係する職に就き戦没者となった朝鮮半島出身者のうち朝鮮人日本兵を含む約2万1000人が合祀されています。

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韓国人の殆どは日本軍に徴兵された朝鮮人の数より日本軍へ志願したが不合格で入れなかった朝鮮人の数が何倍も多い。不合格で自殺した朝鮮人もいたことも知らない。

朝鮮の方も日本のために命をかけて戦った人がいることを覚えておいてください。

今の在日と呼ばれる連中が、日本のために戦った人々をも貶め日本人と同じように虐殺されたことをなかったかのように日本人に思わせている。

過去の犯罪を隠して日本のせいにし恩をあだで返す今の在日や韓国人を日本から追い出したいと思うのも自然なことです。

韓国では反日教育が隅々までいきわたり、日本人を傷つけ(殺害やレイプ)ようと目論む連中も少なくありません。

マスゴミによって踊らされる危険性を知らない日本人は「韓国旅行」に出かけてしまう人もいるため、嫌韓に関係なく「韓国旅行は危険!」であるという警鐘は鳴らし続けなくてはなりませんし、日本にいる在日韓国人に対しても警戒は必要です。

1963~1979年、韓国で軍事独裁政権を率いていた朴正熙大統領が在日韓国人に対して「祖国建設のために日本から帰国してほしい」という談話を出したことがありますが在日韓国人はこの要請を無視しました。


1948年から始まった李承晩による韓国大虐殺から逃れるために日本に密入国したのが在日韓国朝鮮人1世で、密入国した者の中には政府側の人たちを殺した犯罪者がいます。


祖国へ帰らない在日韓国朝鮮人で本名を名乗れない連中の素性はこんなところでしょう。

朝鮮半島では朝鮮人同士の大虐殺と朝鮮戦争が同時進行し3年間で400万人もの人が殺され、そういう中で、どれほど日本に密入国し日本国内で犯罪を犯したかは皆さまもよくご存知のことでしょう。

私は、事実は事実として明らかにすべきであり少数の良き隣人のために嫌韓嫌中を止めろとはいいませんが、少数の良き隣人がいることも忘れないでほしいのです。

通州事件のときも、命をかけて日本人をかばい日本人を守った中国の人がいます。

引揚げの際にも、命をかけて日本人をかくまった朝鮮の人がいます。

シナがやっていること北朝鮮韓国がやっていることを受けて、そういう国の人間が嫌いというのは仕方ないことだと思いますが、多くの悪しき隣人の中に日本人のために命をかけてくれた良き隣人がいたことを覚えておいてください。

感情が先にたつのはやむを得ないことですが、その背景には思い込み刷り込みがあり、それは「思考の癖として習慣」になっていきます。

 
潜在意識は自らが受け入れたことで蓄積し培った「価値観」を持つので、感情や思考の癖がついてしまうんです。

思い込みの恐いところ
は良くも悪くもソコに向かって進むことで、憶測や噂が何万もリツリートされることも「絶対◯◯に違いない!」というバイアスが掛かってしまっているからです。

バイアスが掛かってしまうと、それ以外に考えられなくなり自分の思う方へ勝手に進んでいき、バイアスが掛かってしまうと自分に都合の良い情報だけを集め「冷静」に物事を見れなくなります。

そして、嫌な相手の事実には興味を持たず「正論」も無視するようになります。

自分が選択したモノへの拘りが、事実にバイアスをかけ歪んだ情報収集をさせるんですね。

人間は「理屈」より好き嫌いの「感情」で物事を判断しやすいですから、好意を抱いている相手の発言は信じようとするし、嫌いな相手の発言は事の是非に関係なく信じようとしない。

ネットには、釣り投稿、狂言投稿などもあり、人・団体の名誉を損なうもの犯罪に関するものなどは、投稿を鵜呑みに反応するのではなく、ニュースソース情報源を確認してリツイート、引用をしてください。

場合によっては名誉毀損で訴えられ、民法上の損害賠償責任を負う可能性もあります。

正確な情報の拡散のためにも好き嫌いの感情で物事を判断せず、思い込みがないか?ご自分に問う癖をつけていただけたらと願います。

ひとつの情報だけに頼らず、一方向だけから物を見ていると狭い視野が事実を曇らせてしまいます。

嫌うということが悪いのではなく、嫌うことで事実まで無視しないようにお願いできたらと思います。



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今年も2018年7月13日(金)〜7月16日(月・祝)までの4日間。
靖国で「第72回 みたままつり」が行われます。
「みたままつり」は、国のために尊い命を捧げられた英霊を慰める行事として靖国神社にて日本古来のお盆にあたる期間に毎年行われています。

【みたままつり2018@靖国神社の開催概要】
名称:第72回 みたままつり
日程:2018年7月13日(金)~7月16日((月・祝))
時間:18:00~21:30
場所:靖国神社境内
▼交通アクセス・最寄り駅
・JR「飯田橋駅」徒歩10分
・JR「市ヶ谷駅」徒歩10分
・東京メトロ、都営地下鉄 「九段下駅(出口1)」徒歩5分

<注意事項>
◆境内での次の行為は禁止されています
 ・ドローンの使用
 ・無許可での集会やイベント
◆未成年者の飲酒・喫煙等、青少年の非行防止にご協力ください。
◆お越しの際は公共の交通機関をご利用ください。
(千代田区観光協会)
http://www.kanko-chiyoda.jp/tabid/4063/Default.aspx

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昨年「靖国神社のみたままつりに参拝。 遊就館で英霊の皆様の日本国の未来を願い、大空・大海に散っていった思いのこもった言葉の数々を拝見し、この日本を支那・朝鮮をはじめとする反日勢力から守らねばならないとの気持ちを新たにしました。 」という方のツィートを読んで、とても嬉しく、また頼もしく感じました。

靖国に眠る英霊は戦争で亡くなった方ばかりではありません。

祀られている対象者は主に「戊辰戦争~第二次世界大戦、そして戦後、東南アジアなどの独立戦争に参加した人々」ですが、準軍属とみなされる方も多数祀られ、戦時徴用されて軍需工場で働いているときに空襲を受けた女性たち、満州開拓に携わった人々、沖縄戦に巻き込まれた一般の人たち、沖縄のひめゆり学徒隊、真岡郵便電信局事件で自決した女性たちも含まれています。

また、朝鮮兵士ではない陸軍士官学校を卒業して士官に任官した者旧大韓帝国軍から朝鮮軍人として日本陸軍に転籍した者、そして、戦争末期1944年に一般兵士も徴兵制で登用され日本統治下で軍務に関係する職に就き戦没者となった朝鮮半島出身者のうち朝鮮人日本兵を含む約2万1000人が合祀されています。

私たちが迎えた「平和な日本」は、ある日、突然、訪れた訳ではありません。

我が国の平和は、戦後の人々の強く逞しい精神、おおらかで朗らかな先人たちによって築かれてきたものです。

先人たちが築いてきた日本を私たちの代で終わらせることがあってはいけません。

印象操作に踊らされる情弱な連中が「憲法9条によって日本は守られてきた」「許し合う心こそ世界を平和にする」などと発信していますが、寝言は紛争地で語ってこそ意味があることです。

紛争地では、能天気に「平和を語る」前に命を落とす。

かつて、SEALDsの中心メンバーである奥田が、自分や家族に向けた殺害予告を受けて震え上がり警察に慌てて駆け込んだことはよく知られていることです。

戦禍に巻き込まれれば「寝言」をいってる暇はありません。

「戦争反対」や「平和」を叫ぶ口先だけの連中は、夢の中にいるかシナかロシアか朝鮮の工作員です。

日本は2つの原子爆弾を投下され広島市の人口35万人(推定)のうち9万~16万6千人が被爆から2~4ヶ月以内に死亡。

長崎市の人口24万人(推定)のうち約7万4千人が死没、建物は約36%が全焼または全半壊した。

広島、長崎だけなく都市部や軍需工場があった町は全て焼け野原になった…

それでも日本人は、先帝陛下と共に戦後の日本を復興させていきました。

先帝陛下の歩まれた道は、過去記事【汚いものを引き受けられる人(先帝陛下)】を参照ください。

http://kokorone.blog.jp/archives/16301992.html

日本の復興と繁栄は、先人たちの弛まぬ努力と不屈の精神が築いた結果です。

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先人たちが築いた日本。

日本を守るために「命」をかけ、虐げられたアジアの人々を解放するために戦った英雄たち。

その尊い命をささげた軍人・軍属と民間人計310万の人々と、戦後の焼け野原から日本を復興させた先人たちに「日本を任せてください」といえる日本人でありたいと思います。


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拙ブログの読者の方であれば「またか?」と思われるかも知れませんが、以前お伝えしたように南京大虐殺についてはシツコク書いていく予定ですので「またか…」と思われる方も、ぜひお付き合いください。

人は「一度読んだら分かった気になる」ものですが、読んだだけでは他人に説明することはできないでしょう。

理解というのは、他人に説明できてはじめて理解しているというのだと私は思います。

しかし、記憶のメカニズムとして「人は生死に関わるような重要な情報以外は瞬く間に忘れていく」ようにできいますから、人から教えてもらったりすると「覚えているつもり」になり、また同じことを聞くということがあります。

凄く馬鹿にされて悔しかったとか、大切な人を失ってとても辛かった悲しかったという情動が記憶と結びついていると深く記憶に刻まれて忘れにくくなります。

ですから、英語圏の外国人の恋人ができると途端に英語がうまくなる方がいるわけです。

以前、村上春樹氏が「南京事件」について書かれた小説が物議をかもしましたが、私は村上春樹氏の小説には興味がないので読んだことはありません…

しかし、世界的にも知名度の高い村上春樹氏の著書が出版されたことで、誤った歴史観が世界に飛び火しないことを願いました。

南京大虐殺は「通州での日本人の惨事と中国人を入れ替えた史実」ではないかと私は考えており、歴史的に見てもシナでは近代まで引き継がれてきた残虐な行為を日本人がしたとは到底考えられません。

また、通州事件のときは、どの新聞も一面で取り上げられていたのに対し、陥落当時の人口は「20万から25万」という当時の人口より多い30万人もの南京大虐­殺があったというのに、その記事は全く新聞に載らなかった ことも不自然です。

1938年、蒋介石が外国の記者と300回に及ぶ会見で一言も南京のことは言及していないことからも、もし30万人もの南京大虐­殺が事実であったなら、そのとき激しく抗議をしていなければおかしいのです。

南京大虐殺など起こっていなかったと考えれば辻褄が合いますし、それだけの事件であれば、当時、大変な騒ぎになっていたはずでしょう。

日本は、敗戦後、自虐史観を植えつけられ誤った歴史観を抱いている方がいますが、誤った歴史観から脱却しそういう虐殺・殺戮が得意な国は何処か?ということを知ってください。

東京裁判は、日本のためアジアの独立のために命をかけた人々を戦犯とし、戦勝国が見せしめのリンチをした。

その際に、証人として発言したマギー牧師は、サトン検事の質問に従って、南京市内で日本兵がおこなった一般市民に対する殺害や婦女暴行について事細かく証言していますが、200,000人に及ぶ中国人の安全地区にいた間に牧師は、100件以上の事件を生々しく伝えておきながら、自分で実際に見た事件はたった3件(殺人1、窃盗1、婦女暴行1)しかなく、後は被害者から聞いた話だと証言した。

そして、直接の被害にあったと言うものは1人も証人として現れなかった。

東京裁判では、直接の被害者ではなく被害者から聞いた話を伝えただけの人間が証人として立った。

この間に日本の新聞やラジオは、毎日のように南京事件のニュースを全国に流しましたが、証拠として価値のないものばかりでした。

また、ウェップ裁判長は、弁護側の証人に対しては邪魔をするように何度も口を挟み時間を制限し検察側の証人についてどんなものでも受け入れた。

南京大虐殺を始めとして東京裁判では、でたらめな証言をする証人が多かったのですが、その理由は、この裁判では嘘をついても偽証罪に問われることがなかったからです。

東京裁判は白人に楯突いた日本人を二度と歯向かわせないための復讐でありリンチであり、そのため南京大虐殺という捏造した歴史が利用されたのです。

私は、全ての人に歴史の真実を知ってほしいと願います。
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 鈴木史朗氏 【南京大虐殺は真実ではないと思う理由】

 〈もう一度南京へ〉
 TBSのバラエティ番組『からくりテレビ』の名物コーナーで、私が司会を務めていた「ご長寿早押しクイズ」。毎週数名のご長寿の方にご登場いただき、クイズに答えていただく人気コーナーでしたが、今から十一、二年前、南京戦に参加されていたという会津若松の方にお会いしたことがありました。

 撮影の合間に南京の話になり、私が「あそこは大変なことがあったから、もう南京には行けませんね」と声をかけると、その方が「いや、私は死ぬまでにもう一度南京へ行きたいんであります」とおっしゃった。私は驚いて、「どうしてですか」と聞いたところ、こんな話をして下さいました。

 「衛生兵として南京で日本兵を助けたが、怪我をした中国の敗残兵も助けた。軍のトラックで送ってやったら中国人の家族が非常に感謝して、家宝の掛け軸をくれたんです。さらに『戦争が終わったら、ぜひもう一度南京へ来てほしい。歓待したい。一日千秋(いちじつせんしゅう)の思いで待っている』とまで言われたんです。だから、私は死ぬまでにもう一度南京に行きたい」

 このことでハッと思い出したのは、私自身が幼いころ、南京戦直後に中国にわたり、天津で過ごした日々のことでした。それは、「大虐殺」があったなどとは到底考えられないほど、大変のどかな日々だったのです。

 この方にはその後、もう一度お会いする機会があったので、「南京大虐殺」の証拠写真とされている、松葉杖をついた片足の中国兵と、笑顔の日本兵が並んで移っている写真を持って行ったんです。キャプションには、「残虐な日本兵によって、逃げられないように片足を斬り落とされた中国兵」と書かれていました。

 ところが、この写真を見せたところ、南京戦に参加されたその方がとても喜んだんです。「この兵隊のことは良く覚えていますよ。アルマイトがなかったので、ヤカンをつぶして義足を作ってやったんです。いやー、よかった。この写真、いただいてもいいですか」

  他にも、実際に参戦された方々からさまざまなエピソードやをお話しいただきました。「たしかに、南京戦で相手の兵士を殺した。だが、それはあくまでも中国の兵士であって、日本兵も戦死しています」、「トーチカから撃ってくる兵士を仕留めて近づくと、機関銃手はまだあどけない顔の若者で、鎖でつながれていた。武士の情で彼らの墓を作ってやりました」。

 「南京戦後、中国人から『兵隊さんありがとう。あなたの靴を磨かせてください』と言われて、泥だらけだからと断ったのだが、どうしてもといわれたので磨いてもらった。気持ちが嬉しくて、飴玉をあげました」。

 そして、少しずつ勉強する時間が取れるようになり、勉強しはじめてみると、東中野修道氏や北村稔氏、また『WiLL』に連載されている西尾幹二氏ら「現代史研究会」の研究成果が自分の体験と重なって、歴史を学べば学ぶほど、また中国での日々を思い出せば思い出すほど、「大虐殺なんてあり得ない」という確信を得るにいたったのです。

 〈天津での日々〉

 私は、一九三八年(昭和十三)年二月十日に京都で生まれました。直後に、父が「大陸で一旗挙げたい」といって、それまで勤めていた有名な生命保険会社を辞めて単身、大陸へわたったのです。残された母は、私が一歳になるのを待って、一九三九年四月頃までには大陸へわたりました。南京戦が行われたのが一九三七年十二月のことですから、その一年半後には、もう私の母は女一人、子供を抱いて中国にわたっていたことになります。



 
そして、天津の日本人租界での暮らしが始まりました。元々フランス人租界だったところを日本人租界にしたそのあたりは非常にのどかで、その様子が伺える当時の写真も数枚残っています。引き揚げの時に持ち出しを禁止されたので、写真はかぎられたものしか残っていませんが、一枚目(上)は天津市淡路街という日本人租界の民団住宅前で撮影したものです。私と二人の妹と、近所の中国人の子が一緒に写っています。中国人の子の母親が非常に良くしてくれて、妹たちにおそろいの中国服を作ってくれました。

 もう一枚(下)は天津市須磨街の自宅付近で撮ったもの。近所の中国人の楊車(輪タク)夫が楊車に私たちを乗せて遊ばせてくれている光景です。背景も写っていますが、近所の中国人もよく日本人租界へやってきて、「日本人街の水道はきちんと整備されているから」などといって、水道の水などをもらって帰っていました。

 「天明公社」という貿易と軍需関係の合弁会社を設立した父の事業もうまくいっていて、わが家は結構裕福な暮らしをしていました。父が行き倒れになった中国人夫婦を助けて、自宅のガレージの一角に部屋を作って住まわせていたこともありました。その夫婦は恩義に感じてくれたのか、三人の子供にそれぞれ「小一」「小二」「小三」と日本風の名前を付けていて、私と同じ歳だった「小二」とはよく遊んだ思い出があります。

 当時の天津は本当に安全で、私は子供の足で歩いて二十分ほどの幼稚園まで、毎日一人で通っていたほどでした。道すがらの中国人が私に対して何かを言ってきたり、身の危険を感じるうようなこともありませんでした。虐殺などが本当に起こっていたとすれば、日本人に対して何らかの罵声が浴びせられたり、少なくとも親から「一人で出歩いては危ない」などと言われたはずですが、そのようなことはありませんでした。

 それどころか、中国人に助けてもらったこともあります。家の近くを運河が流れていたのですが、土手でかけっこをして遊んでいて、川に落ちてしまった。溺れていたところを中国人の船頭さんが助けてくれて、自宅まで連れて帰ってくれたのです。川の水を飲んで赤痢(せきり)にはなってしまいましたが。

 たまに町で日本兵を見かけることもありましたが、中国人の友達も「カッコイイね。僕も将来はあんな兵隊さんになりたい」ということを言っていたくらいで、規律正しい日本兵の姿には、中国人も日本人も、ある種の敬意と畏(おそ)れを持っていたようです。天津には七年間住んでおり、子供ながらにシンガポール陥落など戦況についてよく話していましたが、「南京大虐殺」については一度も聞いたことがありませんでした。

 〈中国人女性にモテた父〉  

  父の会社の本社や事務所があった北京にも時々行きました。王府井(ワンフーチン)界隈の大通りに面したところに事務所がありましたが、当時の北京は賑やかで華やかで、やはり穏やかでした。太ももまでスリットの入ったチャイナ服の中国人の女性が自転車で走り去るのを見て、子供心に「すごいお姉さんだなあ」と思っていた記憶があります。

 父は、とにかく北京では中国人女性にモテてモテて、母はとても苦労していたようです。父は俳優の上原謙のような男前でしたし、明治の男ですから仕方がないとはいえ、恋愛結婚で一緒になって、大陸まで父を追いかけた母にとってはたまらなかったでしょう。

 ただ、もし本当に南京で日本人が民間人の大虐殺を行い、女性を強姦していたとしたら、中国人女性が日本人男性である父にそれほどまでにほれ込んだりはしなかったでしょうし、中国人同士の間でも「日本人なんかに熱を上げて」と非難されたはずです。しかし、そのようなことは全くなかったばかりか、父は中国人のためにも一所懸命働きましたので、老若男女問わず、中国人からは非常に尊敬されていたのです。

 〈南京ののどかな光景〉

 胡同(フートン)にある本社の隣には、北京の警察署がありました。父と署長は仲が良く、どこかへ一緒に列車で出かけたこともありました。署長さんはお金持ちだったからか、一号さんと二号さんを隣りに乗せていて、どちらもとても素敵な女性でしたが、口紅ばかり塗っていて子供の私には目もくれず、冷たくあしらっていました。「可愛がってくれないんだなあ」と思ったのを覚えています。

 しかし、そう感じたということは、逆に言えばそれ以外の中国人の大人たちは、日本人である子供の私を非常に可愛がってくれていたということでしょう。 三、四歳の頃には南京へも行っているんです。まだ記憶はおぼつかない頃ですが、親父に後から聞いた話は覚えています。

 「お前を南京に連れて行った時、泣かずに頑張った。南京のある中国人が、そんなお前の態度を見てとても気に入ってほめてくれたんだ。しかも、『耳の形がいい。こういう人物と付き合うと、自分の運気も上がるから、是非抱かせてくれ』といって抱き上げてくれたんだよ」

 また、父は南京で聞いた話をもとに、よくこんなことを言っていました。「聞いたところによると、日本の兵隊さんが食糧を分けてくれたので、南京の人々は助かったんだそうだ。お前もいい兵隊さんになるためには、強いだけではダメで、思いやりをもたなければいけないよ」

 この話は非常に印象的だったのですが、後のこの話に通じる事実があったことを知りました。あのジョン・ラーベも日本軍宛に「私どもは貴下の砲兵隊が安全地区を攻撃されなかったという美挙に対して、また同地区における中国民間人の援護に対する将来の計画につき、貴下と連絡をとり得るようになりましたことに対して感謝の意を表するものであります」との書簡を送っており、報告書でも、日本軍からの米と小麦の配給があったことに触れています。

 もし本当に大虐殺が起こっていたとしたら、いくら書簡の挨拶文とはいっても「感謝」など示すはずがありません。


 〈命からがら引き揚げ〉

 歴史的根拠に関して言えば、二〇〇七年十二月に出版された『WiLL』増刊号「『南京大虐殺』に終止符!」で、映画『南京』が紹介されています。私もこの映画を見ましたが、あの映画ののどかな光景は、まさに私が天津で暮らしていた頃の記憶と重なるのです。とてもじゃないが、「虐殺があった」とは思えない光景が記録されています。

 増刊号でチャンネル桜の水島総氏も指摘されているとおり、この映画にはワイドショットが多用されているのですが、報道記者としての経験から言っても、ワイドショットでは不都合なものがあった場合、それが映りこんでしまうので、ドキュメンタリーを撮る場合には普通、あのような撮影はしません。「不都合なものなどない」から、安心してワイドショットで撮影していたのだと分かります。

 優しく、子供好きの日本兵、そして日本人と中国人が楽しそうに交流している様子。もし本当に虐殺があったなら、中国の人々も日本兵も、あのような自然な笑顔で交流することなどできなかったはずです。

 終戦を迎えると、さすがに中国人は現実的ですから、コロリと態度が変わりました。わが家に住んでいた中国人家族も、「引き揚げるなら財産を全て置いて行け」などと言いだしたほどです。こちらはせめてと思い、財産と引きかえに「持って帰ってはいけないといわれているので、写真を後から日本へ送ってほしい」と撮りためた写真を託したのですが結局、届きませんでした。送ってくれなかったのか、それとも没収されてしまったのかは分かりません。

 それどころか、父は貿易と軍需の会社をやっていた関係でスパイ容疑をかけられて逮捕、拘束されてしまいました。一番下の妹は三カ月くらいで出発前に死んでしまいましたし、父が死刑になるかどうかも分からない状況のなか、私と母はとにかく引き揚げなければということで、私は両手に妹を連れて、母は父の荷物まで一緒に背負って塘沽(タンクー)の町まで二週間かけて歩きました。銃撃を受けながら、ろくなものも食べられない状況での過酷な「行軍」だったのです。

 幸いなことに、父は共同経営者だった中国人が「鈴木(リンムー)先生は日中のためによくやってくれた。鈴木先生をこのまま殺したら、子々孫々から恨まれる」と一所懸命動いてくれたので刑を免れ、港で合流することができ、何とか一家で日本へ引き揚げてきたのです。

 〈テレビ局の「自主規制」〉

 命からがら日本へ帰った私は、その後大学へ進学し、TBSに入社しました。仕事が忙しく、その後中国を訪れることもなく、日々の生活に追われて天津での日々を振り返る暇もなかったほどでした。社会部で仕事をしているなかで、ふと気がついて周りを見渡したときには、「虐殺はなかったんじゃないか」ということすら言えない雰囲気が出来上がっていました。それがテレビ局の「自主規制」なのか、自虐史観を刷り込まれているからなのか、はたまた中国の謀略にかかってしまったからなのかは分かりません。

 局にいる間はこのことで揉めたこともありましたが、TBSを卒業してからは「もう何を言ってもいいだろう」ということで、講演などでも自分の経験からのお話をさせていただいてきました。それでも、雑誌やテレビが「私が経験から南京大虐殺などなかったと思う理由」について取り上げてくれたことは一度もありませんでした。

 以前、日本テレビ系列の『オジサンズ11』(〇七年十月~〇八年九月まで放映)という番組に出演していた時に、制作プロダクションから「何か番組で取り上げるテーマはありませんか」と聞かれたので、映画『南京』を取り上げてはどうか、と提案したことがありました。

 この映画は他の局で放映されたことはないし、これまでの「南京」のイメージが覆(くつがえ)る。南京の真実が伝わるだろうと思ったのです。プロダクションのスタッフが話に乗ってくれて、私は本当に嬉しかったんです。「これで真実が全国に広がるきっかけになる」と思っていたのですが、会議で上の人間から何か言われたのでしょう、有無を言わさず却下されてしまいました。その後はスタッフが私を見る目が変わり、目が合っても顔を背けるようになってしまった。非常に悲しかったですね。

 報道に携(たずさ)わる以上、「真実」に近づき、「真実」を伝えることが使命だと分かっているはずです。にもかかわらず、「検証」すらせず、中国のプロパガンダ、「嘘」に加担し続けるというのは、報道人としての風上にも置けません。すでに中国の手が回っているのかもしれませんが、「真実」を伝えることが報道に携わるものとしての、いや人間としての務めではないでしょうか。

 〈日中の未来のために〉

 「南京大虐殺」のような「嘘」があるかぎり、日中が手に手を取ってやってくことはできません。日本と中国は永遠に隣同士ですから、その関係を悪化させる中国の反日プロパガンダ、反日教育はたださなければなりませんし、このような状況は日本にとっても中国にとっても、「最大の悲劇」としかいいようがありません。

 私にとって、中国は「第二の故郷」なのです。その中国の方々が、このような「嘘」を永久に教え込まれ続けるとすれば、本当に悲しいことです。映画『南京』の冒頭には、このような字幕が流れます。「我々の同胞が一つになって闘った数々の光輝ある歴史の中でも南京入場は燦然(さんぜん)たる一頁として世界の歴史に残るだらう。その日の記録としてこの映画を我々の子孫に贈る」。

 我々は、どんなに時間をかけても「南京大虐殺は真実ではない」と伝えていかなければならない。それが「我々の子孫」……つまり日本人の未来のためであり、中国人のためでもあるのです。 

 筆者 鈴木史朗

当時を知る方たちは、もうほとんどいない…しかし、事実が捻じ曲げられ真実が歴史の中に埋もれていくことは避けなくてはいけません。

日本は、歴史を捏造する中国・韓国のみならず、この国の左翼や朝日新聞などによって現在に及ぶまで事実に基づかない「中傷」と「不利益」を被っているのですから。


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数日前、5月15日放送「あさイチ」で下町ツアーの伊藤薫が外国人観光客に対して「日本軍は米国を攻撃し、支那や東南アジア諸国にも侵攻した」とガイドし、NHKが「日本はアメリカを攻撃し、韓国、中国、東南アジアに侵攻しました」韓国を追加し虚偽の翻訳を放送していたことがSNSで話題になりました。

伊藤薫のような無知を許すわけにはいきませんが、NHKの相変わらずの悪質なヤリクチにも断固として声をあげていかねばなりません。


(NHKへのご意見・お問い合わせ)
電話:0570-066-066 まで
(メールによるご意見・お問い合わせ) 
http://www.nhk.or.jp/css/goiken/mail.html


伊藤薫のような無知は罪であり、これがワザとであれば許されることではありません。

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大東亜戦争に至るまでの経緯を知っている人であれば、伊藤薫のような発言は決して出来ません。

我が国の歴史を、この国を守った英霊たちの歴史を、何も知らないのであれば「下町のことだけ」を話していればいい。

支那事変からの流れは「正しい 歴史 認識 国益 重視 の 外交 核 武装 の 実現( fc2ブログ)」さんが詳細に書いていらっしゃったので一部を抜粋し転載させていただきます。


【支那事変→真珠湾攻撃→大東亜戦争】 1933年の「塘沽協定」によって完全決着した満州事変から4年後の1937年に始まった支那事変は、支那共産党が盧溝橋事件を起こし、支那軍が停戦協定を何度も繰り返し破って継続・拡大した戦争。 盧溝橋事件の約3週間後には、支那保安隊が日本人居留民約260人を大虐殺した(通州事件)。

更に2週間後、支那軍は数十万人という大軍で上海の国際租界の日本人居留区を包囲攻撃した。 支那軍機は上海市街地のホテルやデパートを爆撃して民間人や外国人を大量に殺害した。

その後も支那は、日本が提出した和平案をことごとく蹴り、戦争を継続し、支那人民を虐め抜いた。
支那軍による徴発・徴用・徴兵は過酷を極めた。

支那軍は、上海市街地爆撃の他、焦土作戦、黄河・揚子江の堤防破壊(決壊)などによって多くの民衆を殺害し、世界で初めて違法毒ガスを使用したり細菌戦を行なったりするなどの暴虐・悪逆の限りを尽くした。

支那が戦争を始めて、日本が何度も何度も「やめよう。やめよう。」と言ったのに、支那がそれを無視して戦争を継続・拡大して暴虐の限りを尽くした戦争なのだから、日本にとっては自衛戦争以外の何ものでもない。

それにもかかわらず、満州や支那での利権を狙っていたアメリカは、支那に対して金や武器を援助し、日本に対しては経済制裁を行った。

―――――
1941年
4月15日、ルーズベルト大統領は米軍人にフライング・タイガースに自主的に志願するよう行政命令
7月23日、ルーズベルト大統領など米国首脳がフライング・タイガーによる日本本土爆撃計画に署名
8月1日、米国が対日石油輸出を全面禁止
11月26日、ハルノート提示
12月7日(8日)、真珠湾攻撃
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当時の日本は、石油の殆どをアメリカからの輸入に頼っていた。 そのアメリカが日本への石油の輸出を禁止した。

アメリカ以外では、わずかにイギリスやオランダ(オランダ領インドネシア)などの輸入先があったが、アメリカががイギリスやオランダにも日本に石油を売らせないようにした。

当時の日本は、アメリカから「日本に石油を売らない」と言われたら、戦争をして石油を確保するしか選択肢はなかった。

石油があったオランダ領インドネシアでは、インドネシア人たちが何度もオランダに対して独立戦争を試みたが、全て失敗していた。

しかし、大東亜戦争における多数の日本軍の犠牲により、アジア諸国はようやく独立できた! 日本は、直接オランダ軍を攻撃しただけではなく、インドネシアなどの大東亜各地において軍隊を創設して教育して訓練を与えた!


http://deliciousicecoffee.jp/blog-entry-7083.html?sp
(転載ここまで)


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日本人であれば、日本は「自衛のため参戦したのであり戦禍へ巻き込まれた」という事実を知らなくてはいけません。

連合国軍最高司令官、国連軍司令官を務めたダグラス・マッカーサーは、1951年の米国会議で、日本の戦争は資源がなかったための自衛戦争であったと証言し、日本悪者論を撤回した。この会議で証言に対する反対者はいなかった。

今は、真珠湾関連の米国の公電も公表され、日本の真珠湾攻撃は米軍が暗号を解読して知っていたことも明らかにされています。

このことは米国が明らかにした事実です。

ハル・ノートは、米国が過酷な経済封鎖した上で、日本に支那、満州からの即時撤退を要求したもので、このため我慢に我慢を重ねてきた日本は、やむを得ず1941年12月8日米国の対日政策の談話を求めて真珠湾に反撃した。

日本は奇襲攻撃を仕掛けたのではなく反撃に出た。

その「情報」は、公電によって明らかにされていたのです。

米国駐日大使グルー氏の1941年1月27日の日記によれば、日米断交になれば日本が真珠湾を攻撃すると言う噂が東京の外交界で流れており国務省に報告したと書かれてあり、ハル国務長官には10ヵ月以上前にこの報告が届いていた。

また、米軍のフライング・タイガー部隊は、真珠湾事件の前から米陸軍航空隊を国民党軍機に偽装し日本軍を攻撃した。

これは米国による開戦前の「宣戦布告」のない汚い戦闘行為であり、太平洋戦争で先に手を出したのは米国だということです。

戦後の東京裁判では、インドのパール判事が、ハル・ノートについて「このような通牒を受け取れば、モナコやルクセンブルクのような小国でさえ米国に対して武器をとって立ち上がっただろう」と発言したことは、よく知られていることです。

パール判事の言葉からも、日本を戦争へと引きずり込みたい米軍の思惑があったことが読み取れます。


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事実を何一つとして知りもしない伊藤薫は恥を知るべきです。

外国人観光客に対して「日本軍は米国を攻撃し、支那や東南アジア諸国にも侵攻した」とガイドしたことは許しがたい。

そして、伊藤薫でなくとも「日本人」であれば、なぜ我が国が戦禍へと巻き込まれたのという経緯を知らねばなりません。


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そして、我が国を守るため英霊たちが命をかけた歴史を汚す発言には、断固として声をあげなくてはなりません!




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翻訳ありがとうございます。


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