心の風景

タグ:朝日新聞

昨日の記事に書きましたが、常に仕掛ける側があり、略奪、虐待、強姦、虐殺が繰り返され、その中でも中共は「他民族虐殺、他宗教虐殺」の歴史しかありません。

「他民族虐殺、他宗教虐殺」の歴史については、今週末くらいに書けるといいなと思っていますが、その前に「南京大虐殺の嘘」について
鈴木史朗氏が書かれた記事をご紹介したいと思います。

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鈴木氏は今年「正論 緊急特大号 8」にも記事を掲載されており拝読いたしましたが、
鈴木史朗氏の「南京大虐殺」はなかったのだという強い思いを感じずにはいられませんでした。



【南京大虐殺は真実ではないと思う理由】
 〈もう一度南京へ〉

 TBSのバラエティ番組『からくりテレビ』の名物コーナーで、私が司会を務めていた「ご長寿早押しクイズ」。毎週数名のご長寿の方にご登場いただき、クイズに答えていただく人気コーナーでしたが、今から十一、二年前、南京戦に参加されていたという会津若松の方にお会いしたことがありました。

 撮影の合間に南京の話になり、私が「あそこは大変なことがあったから、もう南京には行けませんね」と声をかけると、その方が「いや、私は死ぬまでにもう一度南京へ行きたいんであります」とおっしゃった。私は驚いて、「どうしてですか」と聞いたところ、こんな話をして下さいました。

 「衛生兵として南京で日本兵を助けたが、怪我をした中国の敗残兵も助けた。軍のトラックで送ってやったら中国人の家族が非常に感謝して、家宝の掛け軸をくれたんです。さらに『戦争が終わったら、ぜひもう一度南京へ来てほしい。歓待したい。一日千秋(いちじつせんしゅう)の思いで待っている』とまで言われたんです。だから、私は死ぬまでにもう一度南京に行きたい」

 このことでハッと思い出したのは、私自身が幼いころ、南京戦直後に中国にわたり、天津で過ごした日々のことでした。それは、「大虐殺」があったなどとは到底考えられないほど、大変のどかな日々だったのです。

 この方にはその後、もう一度お会いする機会があったので、「南京大虐殺」の証拠写真とされている、松葉杖をついた片足の中国兵と、笑顔の日本兵が並んで移っている写真を持って行ったんです。キャプションには、「残虐な日本兵によって、逃げられないように片足を斬り落とされた中国兵」と書かれていました。

 ところが、この写真を見せたところ、南京戦に参加されたその方がとても喜んだんです。「この兵隊のことは良く覚えていますよ。アルマイトがなかったので、ヤカンをつぶして義足を作ってやったんです。いやー、よかった。この写真、いただいてもいいですか」

  他にも、実際に参戦された方々からさまざまなエピソードやをお話しいただきました。「たしかに、南京戦で相手の兵士を殺した。だが、それはあくまでも中国の兵士であって、日本兵も戦死しています」、「トーチカから撃ってくる兵士を仕留めて近づくと、機関銃手はまだあどけない顔の若者で、鎖でつながれていた。武士の情で彼らの墓を作ってやりました」。

 「南京戦後、中国人から『兵隊さんありがとう。あなたの靴を磨かせてください』と言われて、泥だらけだからと断ったのだが、どうしてもといわれたので磨いてもらった。気持ちが嬉しくて、飴玉をあげました」。

 そして、少しずつ勉強する時間が取れるようになり、勉強しはじめてみると、東中野修道氏や北村稔氏、また『WiLL』に連載されている西尾幹二氏ら「現代史研究会」の研究成果が自分の体験と重なって、歴史を学べば学ぶほど、また中国での日々を思い出せば思い出すほど、「大虐殺なんてあり得ない」という確信を得るにいたったのです。

 〈天津での日々〉

 私は、一九三八年(昭和十三)年二月十日に京都で生まれました。直後に、父が「大陸で一旗挙げたい」といって、それまで勤めていた有名な生命保険会社を辞めて単身、大陸へわたったのです。残された母は、私が一歳になるのを待って、一九三九年四月頃までには大陸へわたりました。南京戦が行われたのが一九三七年十二月のことですから、その一年半後には、もう私の母は女一人、子供を抱いて中国にわたっていたことになります。



 そして、天津の日本人租界での暮らしが始まりました。元々フランス人租界だったところを日本人租界にしたそのあたりは非常にのどかで、その様子が伺える当時の写真も数枚残っています。引き揚げの時に持ち出しを禁止されたので、写真はかぎられたものしか残っていませんが、一枚目(上)は天津市淡路街という日本人租界の民団住宅前で撮影したものです。私と二人の妹と、近所の中国人の子が一緒に写っています。中国人の子の母親が非常に良くしてくれて、妹たちにおそろいの中国服を作ってくれました。

 もう一枚(下)は天津市須磨街の自宅付近で撮ったもの。近所の中国人の楊車(輪タク)夫が楊車に私たちを乗せて遊ばせてくれている光景です。背景も写っていますが、近所の中国人もよく日本人租界へやってきて、「日本人街の水道はきちんと整備されているから」などといって、水道の水などをもらって帰っていました。

 「天明公社」という貿易と軍需関係の合弁会社を設立した父の事業もうまくいっていて、わが家は結構裕福な暮らしをしていました。父が行き倒れになった中国人夫婦を助けて、自宅のガレージの一角に部屋を作って住まわせていたこともありました。その夫婦は恩義に感じてくれたのか、三人の子供にそれぞれ「小一」「小二」「小三」と日本風の名前を付けていて、私と同じ歳だった「小二」とはよく遊んだ思い出があります。

 当時の天津は本当に安全で、私は子供の足で歩いて二十分ほどの幼稚園まで、毎日一人で通っていたほどでした。道すがらの中国人が私に対して何かを言ってきたり、身の危険を感じるうようなこともありませんでした。虐殺などが本当に起こっていたとすれば、日本人に対して何らかの罵声が浴びせられたり、少なくとも親から「一人で出歩いては危ない」などと言われたはずですが、そのようなことはありませんでした。

 それどころか、中国人に助けてもらったこともあります。家の近くを運河が流れていたのですが、土手でかけっこをして遊んでいて、川に落ちてしまった。溺れていたところを中国人の船頭さんが助けてくれて、自宅まで連れて帰ってくれたのです。川の水を飲んで赤痢(せきり)にはなってしまいましたが。

 たまに町で日本兵を見かけることもありましたが、中国人の友達も「カッコイイね。僕も将来はあんな兵隊さんになりたい」ということを言っていたくらいで、規律正しい日本兵の姿には、中国人も日本人も、ある種の敬意と畏(おそ)れを持っていたようです。天津には七年間住んでおり、子供ながらにシンガポール陥落など戦況についてよく話していましたが、「南京大虐殺」については一度も聞いたことがありませんでした。

 〈中国人女性にモテた父〉  

  父の会社の本社や事務所があった北京にも時々行きました。王府井(ワンフーチン)界隈の大通りに面したところに事務所がありましたが、当時の北京は賑やかで華やかで、やはり穏やかでした。太ももまでスリットの入ったチャイナ服の中国人の女性が自転車で走り去るのを見て、子供心に「すごいお姉さんだなあ」と思っていた記憶があります。

 父は、とにかく北京では中国人女性にモテてモテて、母はとても苦労していたようです。父は俳優の上原謙のような男前でしたし、明治の男ですから仕方がないとはいえ、恋愛結婚で一緒になって、大陸まで父を追いかけた母にとってはたまらなかったでしょう。

 ただ、もし本当に南京で日本人が民間人の大虐殺を行い、女性を強姦していたとしたら、中国人女性が日本人男性である父にそれほどまでにほれ込んだりはしなかったでしょうし、中国人同士の間でも「日本人なんかに熱を上げて」と非難されたはずです。しかし、そのようなことは全くなかったばかりか、父は中国人のためにも一所懸命働きましたので、老若男女問わず、中国人からは非常に尊敬されていたのです。

 〈南京ののどかな光景〉

 胡同(フートン)にある本社の隣には、北京の警察署がありました。父と署長は仲が良く、どこかへ一緒に列車で出かけたこともありました。署長さんはお金持ちだったからか、一号さんと二号さんを隣りに乗せていて、どちらもとても素敵な女性でしたが、口紅ばかり塗っていて子供の私には目もくれず、冷たくあしらっていました。「可愛がってくれないんだなあ」と思ったのを覚えています。

 しかし、そう感じたということは、逆に言えばそれ以外の中国人の大人たちは、日本人である子供の私を非常に可愛がってくれていたということでしょう。 三、四歳の頃には南京へも行っているんです。まだ記憶はおぼつかない頃ですが、親父に後から聞いた話は覚えています。

 「お前を南京に連れて行った時、泣かずに頑張った。南京のある中国人が、そんなお前の態度を見てとても気に入ってほめてくれたんだ。しかも、『耳の形がいい。こういう人物と付き合うと、自分の運気も上がるから、是非抱かせてくれ』といって抱き上げてくれたんだよ」

 また、父は南京で聞いた話をもとに、よくこんなことを言っていました。「聞いたところによると、日本の兵隊さんが食糧を分けてくれたので、南京の人々は助かったんだそうだ。お前もいい兵隊さんになるためには、強いだけではダメで、思いやりをもたなければいけないよ」

 この話は非常に印象的だったのですが、後のこの話に通じる事実があったことを知りました。あのジョン・ラーベも日本軍宛に「私どもは貴下の砲兵隊が安全地区を攻撃されなかったという美挙に対して、また同地区における中国民間人の援護に対する将来の計画につき、貴下と連絡をとり得るようになりましたことに対して感謝の意を表するものであります」との書簡を送っており、報告書でも、日本軍からの米と小麦の配給があったことに触れています。

 もし本当に大虐殺が起こっていたとしたら、いくら書簡の挨拶文とはいっても「感謝」など示すはずがありません。


 〈命からがら引き揚げ〉

 歴史的根拠に関して言えば、二〇〇七年十二月に出版された『WiLL』増刊号「『南京大虐殺』に終止符!」で、映画『南京』が紹介されています。私もこの映画を見ましたが、あの映画ののどかな光景は、まさに私が天津で暮らしていた頃の記憶と重なるのです。とてもじゃないが、「虐殺があった」とは思えない光景が記録されています。

 増刊号でチャンネル桜の水島総氏も指摘されているとおり、この映画にはワイドショットが多用されているのですが、報道記者としての経験から言っても、ワイドショットでは不都合なものがあった場合、それが映りこんでしまうので、ドキュメンタリーを撮る場合には普通、あのような撮影はしません。「不都合なものなどない」から、安心してワイドショットで撮影していたのだと分かります。

 優しく、子供好きの日本兵、そして日本人と中国人が楽しそうに交流している様子。もし本当に虐殺があったなら、中国の人々も日本兵も、あのような自然な笑顔で交流することなどできなかったはずです。

 終戦を迎えると、さすがに中国人は現実的ですから、コロリと態度が変わりました。わが家に住んでいた中国人家族も、「引き揚げるなら財産を全て置いて行け」などと言いだしたほどです。こちらはせめてと思い、財産と引きかえに「持って帰ってはいけないといわれているので、写真を後から日本へ送ってほしい」と撮りためた写真を託したのですが結局、届きませんでした。送ってくれなかったのか、それとも没収されてしまったのかは分かりません。

 それどころか、父は貿易と軍需の会社をやっていた関係でスパイ容疑をかけられて逮捕、拘束されてしまいました。一番下の妹は三カ月くらいで出発前に死んでしまいましたし、父が死刑になるかどうかも分からない状況のなか、私と母はとにかく引き揚げなければということで、私は両手に妹を連れて、母は父の荷物まで一緒に背負って塘沽(タンクー)の町まで二週間かけて歩きました。銃撃を受けながら、ろくなものも食べられない状況での過酷な「行軍」だったのです。

 幸いなことに、父は共同経営者だった中国人が「鈴木(リンムー)先生は日中のためによくやってくれた。鈴木先生をこのまま殺したら、子々孫々から恨まれる」と一所懸命動いてくれたので刑を免れ、港で合流することができ、何とか一家で日本へ引き揚げてきたのです。

 〈テレビ局の「自主規制」〉

 命からがら日本へ帰った私は、その後大学へ進学し、TBSに入社しました。仕事が忙しく、その後中国を訪れることもなく、日々の生活に追われて天津での日々を振り返る暇もなかったほどでした。社会部で仕事をしているなかで、ふと気がついて周りを見渡したときには、「虐殺はなかったんじゃないか」ということすら言えない雰囲気が出来上がっていました。それがテレビ局の「自主規制」なのか、自虐史観を刷り込まれているからなのか、はたまた中国の謀略にかかってしまったからなのかは分かりません。

 局にいる間はこのことで揉めたこともありましたが、TBSを卒業してからは「もう何を言ってもいいだろう」ということで、講演などでも自分の経験からのお話をさせていただいてきました。それでも、雑誌やテレビが「私が経験から南京大虐殺などなかったと思う理由」について取り上げてくれたことは一度もありませんでした。

 以前、日本テレビ系列の『オジサンズ11』(〇七年十月~〇八年九月まで放映)という番組に出演していた時に、制作プロダクションから「何か番組で取り上げるテーマはありませんか」と聞かれたので、映画『南京』を取り上げてはどうか、と提案したことがありました。

 この映画は他の局で放映されたことはないし、これまでの「南京」のイメージが覆(くつがえ)る。南京の真実が伝わるだろうと思ったのです。プロダクションのスタッフが話に乗ってくれて、私は本当に嬉しかったんです。「これで真実が全国に広がるきっかけになる」と思っていたのですが、会議で上の人間から何か言われたのでしょう、有無を言わさず却下されてしまいました。その後はスタッフが私を見る目が変わり、目が合っても顔を背けるようになってしまった。非常に悲しかったですね。

 報道に携(たずさ)わる以上、「真実」に近づき、「真実」を伝えることが使命だと分かっているはずです。にもかかわらず、「検証」すらせず、中国のプロパガンダ、「嘘」に加担し続けるというのは、報道人としての風上にも置けません。すでに中国の手が回っているのかもしれませんが、「真実」を伝えることが報道に携わるものとしての、いや人間としての務めではないでしょうか。

 〈日中の未来のために〉

 「南京大虐殺」のような「嘘」があるかぎり、日中が手に手を取ってやってくことはできません。日本と中国は永遠に隣同士ですから、その関係を悪化させる中国の反日プロパガンダ、反日教育はたださなければなりませんし、このような状況は日本にとっても中国にとっても、「最大の悲劇」としかいいようがありません。

 私にとって、中国は「第二の故郷」なのです。その中国の方々が、このような「嘘」を永久に教え込まれ続けるとすれば、本当に悲しいことです。映画『南京』の冒頭には、このような字幕が流れます。「我々の同胞が一つになって闘った数々の光輝ある歴史の中でも南京入場は燦然(さんぜん)たる一頁として世界の歴史に残るだらう。その日の記録としてこの映画を我々の子孫に贈る」。

 我々は、どんなに時間をかけても「南京大虐殺は真実ではない」と伝えていかなければならない。それが「我々の子孫」……つまり日本人の未来のためであり、中国人のためでもあるのです。 

 筆者 鈴木史朗


ユネスコ世界記憶遺産として登録されてしまった「南京大虐殺」はなかったという「歴史の真実」を拡散し、誤った歴史観で日本や日本人を憎んでいる人々に歴史の真実を伝えなくてはなりません。

韓国の慰安婦問題なども同じで日本や日本人を貶めるためにやってもないことをでっち上げた。

偽りの歴史を叩き込まれ育った者たちが、日本人というだけで憎み「日本人には何をしてもいい」という感情を持っています。

皆さまもご存知のように、中国、韓国(在日)は圧倒的にそういう人間が多く、彼らは日本の仏像を破壊し、日本女性をレイプし、日本人を殺害している。

国内で起きている事件は、韓国・中国の割合が非常に高く、犯罪が後をたたない。

歴史を捏造する中韓と、この国の左翼や朝日新聞によって、現在に及ぶまで事実に基づかない「中傷」と「不利益」を被っている現実がありますが、中韓との情報戦に負けてはならないのです。

日本を守り他国の人々のために命をかけた先人たちに汚名をきせてはならない。

我々は、どんなに時間をかけても「南京大虐殺は真実ではない」という事実を伝えていかなければなりません。


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立憲・辻元氏「信頼失墜の最大要因は麻生大臣の居直り」
(朝日新聞デジタル)2018年6月6日15時32分

https://www.asahi.com/articles/ASL66514BL66UTFK00K.html

辻元清美・立憲民主党国会対策委員長(発言録)

 麻生さん、1年間国会議員をだまし、国民をだましたのと同じじゃないか。それでも自分は辞めませんと。財務省の信頼を回復するのが自分の責任を果たすことだと大勘違いをされている。財務省の信頼を失墜させている最大の要因が麻生大臣の居直りじゃないか。新しい体制にリセットしてスタートするのは当たり前の話だ。

 (安倍政権は)麻生大臣が安倍政権の守り神であると、何か勘違いされているようだ。安倍総理も麻生大臣が辞めたら不安で不安で仕方がないよ、というもたれ合いだ。あの2人の、信頼をなくした、ウソをついているかもしれないと言われている総理と副総理のよれよれのもたれ合い。これでは日本が沈没してしまう。辞めていただくまで、最後まで力を合わせていきたい。(党内の会合で)

朝日デジタル…よくこんな可笑しな発言をアップできるものだなと…ほかに上げる記事はないのでしょうか?

これでは日本が沈没してしまうって?
誰が沈めようとしているんでしょうね。

「麻生氏が、1年間国会議員をだまし、国民をだましたのと同じじゃないか。」と思っているのは、辻本氏を含む立憲民主党員と反日くらいのものです。

国民をだましているのは、だましたのは誰か?!


被告人Aは誰でしょう?

■東京地方裁判所平成15年刑(わ)第2860号詐欺被告事件判決文
・被告人Aは虚偽を強弁し国会議員としてあるまじき無責任な対応
・国民の負託に背く背信行為で悪質
・Aの言動は刑事責任追及を免れの罪証隠滅行為
・懲役2年。反省を信じ今回に限り執行猶予


辻元清美が『麻生大臣は1年間国会と国民を騙した。総理と副総理は嘘ついてるかもしれない』と騒いでますが、詐欺罪の判決で『国会議員への厚い信頼を悪用し悪質。言動は刑事責任追及免れるための罪証隠滅行為。犯行後も虚偽の弁解を繰返し悪質』と言われた人は誰でしたっけ?

ダウンロード

誰ですか?以下の文面(一部抜粋)にあたる方は?

(イ) 以上みてきたように,被告人Aは,本件各犯行の疑惑が生じた後も,国民に対して真実を明らかにする機会が何度もあったにもかかわらず,その都度,内容は変遷させながらも,責任を回避しようとする虚偽内容の主張を一貫して続けている。しかも,被告人Aは,共犯者らに対し,自己の弁解内容を伝えて,それに沿った供述をするように依頼するなど,口裏合わせと批判されてもやむを得ない行動にも及び,その結果,被告人BやDらは,本件で捜査機関から取調べを受けた際,当初は被告人Aの意向に沿った内容虚偽の供述を続けていたであるから,被告人Aの言動は,自らの刑事責任追及を免れるための罪証隠滅行為にも当たるというべきである。被告人Aは,国会議員という公職にあった者である。しかも,本件各犯行のような犯罪行為はもとより,上記のような卑怯で無責任な場当たり的対応をとることもまた,国民の政治不信を更に増大させるべき背信的行為となるものである。そして,国会議員は,国民の負託に応えて国政に携わる者であるから,仮に本件疑惑発覚当時のように困難な状況に追い込まれても,冷静な判断と適切な対処が期待されている。にもかかわらず,被告人Aは,自ら冷静さを失い,なぜ自分の名義借りだけが非難されるのかという不満さえ抱いて,自己保身ないし自己弁明に汲々とする言動を繰り返し,国民の信頼を大きく裏切ったというほかなく,その点からも厳しい非難に値する。 イ 捜査段階における被告人Aの供述経過等

  (ア) 被告人Aは,平成15年6月中旬ころに初めて警察の取調べを受けて以降,何度も任意の取調べを受けたが,しばらくの間は,DやGからは電話によるアドバイスを受けるなど,政策担当秘書としての仕事をしてもらっていた,被告人Bは,DやGを紹介してくれ,DやGに報酬を支払うことも提案してくれたが,実際に仕事をしてくれる人として紹介してくれたのであって,名義借りだけという話はなかったなどという,虚偽の弁解を繰り返した。   (イ) このような被告人Aの捜査段階における供述態度に,前記アで認定したような,本件疑惑発覚後の被告人Aの言動等をも併せ考慮すると,被告人Aに対する強制捜査が公平を欠くなどと評価する余地はないのであり,被告人Aの犯行後の情状も悪質というほかない。  

(まとめ)以上指摘してきたような本件各犯行の態様の悪質性,結果の重大性,安易で自己中心的な目的,詐取した金員の広範な使途ないし一部の蓄財,本件各犯行において被告人Aの果たした主導的役割,その得た不法な利益の大きさ,犯行後の情状の悪質さに照らすと,本件は,事案として重大であって,被告人Aの刑事責任も,重いというべきである。したがって,被告人Aの弁護人が指摘するような,本件起訴が公平を欠くなどという批判もまた,当を得ないものである。 平成16年2月12日 東京地方裁判所刑事第2部 裁判長裁判官 中谷雄二郎 裁判官 横山泰造 裁判官 松永智史 ホント、誰ですか?

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