心の風景

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「巧言令色鮮なし仁」という論語は、よく知られているかと思います。

「巧言」は、口先だけ、言葉を飾るだけ、お世辞、口達者をいい、「令色」は、作り笑い、媚びを売る、猫撫で声などをいいます。

孔子は、寡黙で誠実な人柄を愛し、無骨で実直、飾り気のない人柄を評価した。

心の風景さん、今日は哲学ですか?と思った方…正解です!

「愛」「調和」という言葉だけ追い求めるお花畑は、戦争、紛争、テロが蔓延るこの世界の「調和」を求めりには、血と汗と涙を流さなくてはならないことを知るべきです。

現実的に生きるということは、汗をかき、人に笑われること、恥をかくことは避けられない。

人は、大人になるにつれ「責任」が伴うからです。

自分のミスでなく部下がミスをしても頭を下げなければならないときがあると思います。

親になれば子供のことで頭を下げることもあるはずです。

いつまでも子供のままでいたい者が「責任」から逃れようとする。

生きていく過程では、キツイ、辛い、悲しいといった経験は避けて通れません。

そこから逃げていては、人としての成長や進化もない。

笑われたり馬鹿にされることがあったり悔しい思いをすることもあるはずです。

そうやって、人は傷つきながら、強く、そして、優しくもなっていくんです。

苦しいとき辛いときにこそ、自分という人間が分かります。

自分の正当性(私は悪くない)だけを訴えて、愚痴をいうだけなら誰にだってできます。

「挑む」より「投げ出す」のは簡単です。

「壊す」のは「作る」のと比較にならないほどたやすい。

「ものづくり」には、検証、試験、結果、問題の洗い出し、フィードバックが必要ですし、論理的に分析し修正を加えていくという面倒な作業は切り離すことができません。

そして、それを幾度となく繰り返して「良いもの」ができる。

それは、どんなことでも同じだと私は思っています。

嫌だと感じて止めてしまえば、その先にあるモノを見ることはないんです。

良いモノは、一つ一つ気の遠くなるような手間をかけてできあがるんです。

「仕事」も「学問」も「知識」も「人間関係」も「恋愛」や「家庭」も「自分という人間」も、同じことがいえると思います。

世界中で、ここ数年、地震や豪雨による自然災害が頻繁に起きています。

昨日まであったもの、当たり前のように暮らしてきた日々が失われていく現実があります。

生を受けたものは、必ず死を迎え、死は全ての生き物に平等に訪れます。

この世を生きる者は、ある意味「今」という「一瞬」が確かな時間ですから「今をどう生きるか」は、とても大事だと思います。


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我が国を残すため命をかけて戦った人々がいます。

焼け野原から、この国を再生させた人々がいます。

今の日本は、そういう人々が残してくれた宝物です。

生きたくても生きられない時代があったことを…

どうか忘れないでください。



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位(くらい)なきことを患(うれ)えず、
立つ所以(ゆえん)を患う。 
己を知ること莫(な)きを患えず、
知らるべきことを為すを求む。

(訳文)

地位が低いことを悩むより、
実力がないことを悩め。
人が認めてくれないことに悩むより、
認められる力をつけることに
心を使いなさい。


他人の評価が気になる。
他人から認めてもらいたい。
評価してもらいたい。

孔子の時代も今も変わらない。
認められれば、地位や肩書きができる。

そして、そこには「力」が生まれる。
しかし、その「力」には責任が伴わなくては意味がないと思いますね。

大切なことは、その肩書きや地位のない、フォロワーのいない、力を失ったときの自分となったときに「自分がいるか」どうかではないかと思います。

基本的に「目立ちたい」者は、自分に自信がなかったり、寂しがり屋というケースが少なくない。
 
自己顕示欲の強さは、裏を返せば「自分に自信がない」ということだったりする。 

それゆえ人から注目されたいし、他者に「必要」とされることが「自分の存在価値」に繋がっている。

派手なパフォーマンスとは裏腹に、実は自分に自信がない。

こういう連中は「ナルシシスト」であり、自己愛性人格障害の傾向が強いメンドクサイ人間で、共感して縁を結ぶ者も根っこが同じ。 

他者の評価を気にするなんて止めた方がいい。

一人になっても「やってやる!」という「自分」を作り上げていくことです。

今日、ご紹介した孔子の論語には、他人の評価ではなく自分に「力をつけいくことに心を使うべき」だということが語られています。

何を主眼にして生きるかというのがとても大事なことではないでしょうか?

そして、再度、岡本太郎氏の言葉をご紹介したい。


意志を強くする方法なんてありはしない。

そんな余計なことは考えるな。

君はほんとうは激しく生きたいんだよ。

だから”死”が目の前に迫ってくる。

それはとても正常なことだ。 

自分に能力がないなんて決めて、引っ込んでしまっては駄目だ。

なければなおいい、今まで世の中で能力とか才能なんて思われていたものを超えた、決意の凄みを見せてやるというつもりで、やればいいんだよ。

むしろ、能力がないほうが素晴らしいんだと平気で闘えば、逆に能力がひらいてくる。

ぼくは、特別力が強いわけでもない、金をそんなに持っているわけでもない。

頭脳だってそれほど優秀じゃないかもしれない。

つまり、さまざまのマイナスの面を背負っている。

でも、マイナスの面が大きければ大きいほど、逆にそれと反対の最高にふくれあがったものを自分に感じるわけだ。

弱い、なら、弱いままのありのままで進めばいいじゃないか。 

他人が笑うまいが自分で自分の歌を歌えばいいんだよ。

歌に限らず他人の判断ばかりを気にしていては本当の人間としての責任がもてない。

もし自分がヘマだったら、”ああ、おれはヘマだなあ”と思えばいいじゃないか。  

よく”一流好み”の人がいるが、それはつまりただ世間の、他人の評価をウノミにしてありがたがっていることだろう。

誰がなんといおうと、三流だろうが、五流だろうが、自分のいいと思うものはいい、という態度を貫かなければ”ほんもの”なんかわかりゃしないよ。

一流だから知りたい、好きになりたいなんていう、さもしい根性を持たずに、自分の本当に感動する人間を探し、つかまえるんだね。

その発見のポイントに世の中全体にその価値を認めさせるように、きみ自身、力を尽くせばいい。

そうすると世界が変わってくるよ。

自分自身を責めることで慰め、ごまかしている人が、意外に多いんだよ。

そういうのは甘えだ。

惨めな根性だと思うね。

何かすごい決定的なことをやらなきゃ、なんて思わないで、そんなに力まずに、チッポケなことでもいいから、心の動く方向にまっすぐに行くのだ。

失敗してもいいから。

1度失敗したなら、よしもう1度失敗してやるぞ、というぐらいの意気込みでやることが大切なんだ。

うじうじと考える必要はない。

すべてのマイナスをプラスの面でつらぬけば、マイナスだと思っているものがプラスになって転換してくる。 

ほんとうの調和というのは、お互いに意見をぶっつけ、フェアにぶつかりあうこと。

誰もが、あえて出る釘になる決意をしなければ、時代はひらかれない。


 ※2018年8月の記事再掲

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