心の風景

タグ:南京大虐殺

昨日の記事に書きましたが、常に仕掛ける側があり、略奪、虐待、強姦、虐殺が繰り返され、その中でも中共は「他民族虐殺、他宗教虐殺」の歴史しかありません。

「他民族虐殺、他宗教虐殺」の歴史については、今週末くらいに書けるといいなと思っていますが、その前に「南京大虐殺の嘘」について
鈴木史朗氏が書かれた記事をご紹介したいと思います。

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鈴木氏は今年「正論 緊急特大号 8」にも記事を掲載されており拝読いたしましたが、
鈴木史朗氏の「南京大虐殺」はなかったのだという強い思いを感じずにはいられませんでした。



【南京大虐殺は真実ではないと思う理由】
 〈もう一度南京へ〉

 TBSのバラエティ番組『からくりテレビ』の名物コーナーで、私が司会を務めていた「ご長寿早押しクイズ」。毎週数名のご長寿の方にご登場いただき、クイズに答えていただく人気コーナーでしたが、今から十一、二年前、南京戦に参加されていたという会津若松の方にお会いしたことがありました。

 撮影の合間に南京の話になり、私が「あそこは大変なことがあったから、もう南京には行けませんね」と声をかけると、その方が「いや、私は死ぬまでにもう一度南京へ行きたいんであります」とおっしゃった。私は驚いて、「どうしてですか」と聞いたところ、こんな話をして下さいました。

 「衛生兵として南京で日本兵を助けたが、怪我をした中国の敗残兵も助けた。軍のトラックで送ってやったら中国人の家族が非常に感謝して、家宝の掛け軸をくれたんです。さらに『戦争が終わったら、ぜひもう一度南京へ来てほしい。歓待したい。一日千秋(いちじつせんしゅう)の思いで待っている』とまで言われたんです。だから、私は死ぬまでにもう一度南京に行きたい」

 このことでハッと思い出したのは、私自身が幼いころ、南京戦直後に中国にわたり、天津で過ごした日々のことでした。それは、「大虐殺」があったなどとは到底考えられないほど、大変のどかな日々だったのです。

 この方にはその後、もう一度お会いする機会があったので、「南京大虐殺」の証拠写真とされている、松葉杖をついた片足の中国兵と、笑顔の日本兵が並んで移っている写真を持って行ったんです。キャプションには、「残虐な日本兵によって、逃げられないように片足を斬り落とされた中国兵」と書かれていました。

 ところが、この写真を見せたところ、南京戦に参加されたその方がとても喜んだんです。「この兵隊のことは良く覚えていますよ。アルマイトがなかったので、ヤカンをつぶして義足を作ってやったんです。いやー、よかった。この写真、いただいてもいいですか」

  他にも、実際に参戦された方々からさまざまなエピソードやをお話しいただきました。「たしかに、南京戦で相手の兵士を殺した。だが、それはあくまでも中国の兵士であって、日本兵も戦死しています」、「トーチカから撃ってくる兵士を仕留めて近づくと、機関銃手はまだあどけない顔の若者で、鎖でつながれていた。武士の情で彼らの墓を作ってやりました」。

 「南京戦後、中国人から『兵隊さんありがとう。あなたの靴を磨かせてください』と言われて、泥だらけだからと断ったのだが、どうしてもといわれたので磨いてもらった。気持ちが嬉しくて、飴玉をあげました」。

 そして、少しずつ勉強する時間が取れるようになり、勉強しはじめてみると、東中野修道氏や北村稔氏、また『WiLL』に連載されている西尾幹二氏ら「現代史研究会」の研究成果が自分の体験と重なって、歴史を学べば学ぶほど、また中国での日々を思い出せば思い出すほど、「大虐殺なんてあり得ない」という確信を得るにいたったのです。

 〈天津での日々〉

 私は、一九三八年(昭和十三)年二月十日に京都で生まれました。直後に、父が「大陸で一旗挙げたい」といって、それまで勤めていた有名な生命保険会社を辞めて単身、大陸へわたったのです。残された母は、私が一歳になるのを待って、一九三九年四月頃までには大陸へわたりました。南京戦が行われたのが一九三七年十二月のことですから、その一年半後には、もう私の母は女一人、子供を抱いて中国にわたっていたことになります。



 そして、天津の日本人租界での暮らしが始まりました。元々フランス人租界だったところを日本人租界にしたそのあたりは非常にのどかで、その様子が伺える当時の写真も数枚残っています。引き揚げの時に持ち出しを禁止されたので、写真はかぎられたものしか残っていませんが、一枚目(上)は天津市淡路街という日本人租界の民団住宅前で撮影したものです。私と二人の妹と、近所の中国人の子が一緒に写っています。中国人の子の母親が非常に良くしてくれて、妹たちにおそろいの中国服を作ってくれました。

 もう一枚(下)は天津市須磨街の自宅付近で撮ったもの。近所の中国人の楊車(輪タク)夫が楊車に私たちを乗せて遊ばせてくれている光景です。背景も写っていますが、近所の中国人もよく日本人租界へやってきて、「日本人街の水道はきちんと整備されているから」などといって、水道の水などをもらって帰っていました。

 「天明公社」という貿易と軍需関係の合弁会社を設立した父の事業もうまくいっていて、わが家は結構裕福な暮らしをしていました。父が行き倒れになった中国人夫婦を助けて、自宅のガレージの一角に部屋を作って住まわせていたこともありました。その夫婦は恩義に感じてくれたのか、三人の子供にそれぞれ「小一」「小二」「小三」と日本風の名前を付けていて、私と同じ歳だった「小二」とはよく遊んだ思い出があります。

 当時の天津は本当に安全で、私は子供の足で歩いて二十分ほどの幼稚園まで、毎日一人で通っていたほどでした。道すがらの中国人が私に対して何かを言ってきたり、身の危険を感じるうようなこともありませんでした。虐殺などが本当に起こっていたとすれば、日本人に対して何らかの罵声が浴びせられたり、少なくとも親から「一人で出歩いては危ない」などと言われたはずですが、そのようなことはありませんでした。

 それどころか、中国人に助けてもらったこともあります。家の近くを運河が流れていたのですが、土手でかけっこをして遊んでいて、川に落ちてしまった。溺れていたところを中国人の船頭さんが助けてくれて、自宅まで連れて帰ってくれたのです。川の水を飲んで赤痢(せきり)にはなってしまいましたが。

 たまに町で日本兵を見かけることもありましたが、中国人の友達も「カッコイイね。僕も将来はあんな兵隊さんになりたい」ということを言っていたくらいで、規律正しい日本兵の姿には、中国人も日本人も、ある種の敬意と畏(おそ)れを持っていたようです。天津には七年間住んでおり、子供ながらにシンガポール陥落など戦況についてよく話していましたが、「南京大虐殺」については一度も聞いたことがありませんでした。

 〈中国人女性にモテた父〉  

  父の会社の本社や事務所があった北京にも時々行きました。王府井(ワンフーチン)界隈の大通りに面したところに事務所がありましたが、当時の北京は賑やかで華やかで、やはり穏やかでした。太ももまでスリットの入ったチャイナ服の中国人の女性が自転車で走り去るのを見て、子供心に「すごいお姉さんだなあ」と思っていた記憶があります。

 父は、とにかく北京では中国人女性にモテてモテて、母はとても苦労していたようです。父は俳優の上原謙のような男前でしたし、明治の男ですから仕方がないとはいえ、恋愛結婚で一緒になって、大陸まで父を追いかけた母にとってはたまらなかったでしょう。

 ただ、もし本当に南京で日本人が民間人の大虐殺を行い、女性を強姦していたとしたら、中国人女性が日本人男性である父にそれほどまでにほれ込んだりはしなかったでしょうし、中国人同士の間でも「日本人なんかに熱を上げて」と非難されたはずです。しかし、そのようなことは全くなかったばかりか、父は中国人のためにも一所懸命働きましたので、老若男女問わず、中国人からは非常に尊敬されていたのです。

 〈南京ののどかな光景〉

 胡同(フートン)にある本社の隣には、北京の警察署がありました。父と署長は仲が良く、どこかへ一緒に列車で出かけたこともありました。署長さんはお金持ちだったからか、一号さんと二号さんを隣りに乗せていて、どちらもとても素敵な女性でしたが、口紅ばかり塗っていて子供の私には目もくれず、冷たくあしらっていました。「可愛がってくれないんだなあ」と思ったのを覚えています。

 しかし、そう感じたということは、逆に言えばそれ以外の中国人の大人たちは、日本人である子供の私を非常に可愛がってくれていたということでしょう。 三、四歳の頃には南京へも行っているんです。まだ記憶はおぼつかない頃ですが、親父に後から聞いた話は覚えています。

 「お前を南京に連れて行った時、泣かずに頑張った。南京のある中国人が、そんなお前の態度を見てとても気に入ってほめてくれたんだ。しかも、『耳の形がいい。こういう人物と付き合うと、自分の運気も上がるから、是非抱かせてくれ』といって抱き上げてくれたんだよ」

 また、父は南京で聞いた話をもとに、よくこんなことを言っていました。「聞いたところによると、日本の兵隊さんが食糧を分けてくれたので、南京の人々は助かったんだそうだ。お前もいい兵隊さんになるためには、強いだけではダメで、思いやりをもたなければいけないよ」

 この話は非常に印象的だったのですが、後のこの話に通じる事実があったことを知りました。あのジョン・ラーベも日本軍宛に「私どもは貴下の砲兵隊が安全地区を攻撃されなかったという美挙に対して、また同地区における中国民間人の援護に対する将来の計画につき、貴下と連絡をとり得るようになりましたことに対して感謝の意を表するものであります」との書簡を送っており、報告書でも、日本軍からの米と小麦の配給があったことに触れています。

 もし本当に大虐殺が起こっていたとしたら、いくら書簡の挨拶文とはいっても「感謝」など示すはずがありません。


 〈命からがら引き揚げ〉

 歴史的根拠に関して言えば、二〇〇七年十二月に出版された『WiLL』増刊号「『南京大虐殺』に終止符!」で、映画『南京』が紹介されています。私もこの映画を見ましたが、あの映画ののどかな光景は、まさに私が天津で暮らしていた頃の記憶と重なるのです。とてもじゃないが、「虐殺があった」とは思えない光景が記録されています。

 増刊号でチャンネル桜の水島総氏も指摘されているとおり、この映画にはワイドショットが多用されているのですが、報道記者としての経験から言っても、ワイドショットでは不都合なものがあった場合、それが映りこんでしまうので、ドキュメンタリーを撮る場合には普通、あのような撮影はしません。「不都合なものなどない」から、安心してワイドショットで撮影していたのだと分かります。

 優しく、子供好きの日本兵、そして日本人と中国人が楽しそうに交流している様子。もし本当に虐殺があったなら、中国の人々も日本兵も、あのような自然な笑顔で交流することなどできなかったはずです。

 終戦を迎えると、さすがに中国人は現実的ですから、コロリと態度が変わりました。わが家に住んでいた中国人家族も、「引き揚げるなら財産を全て置いて行け」などと言いだしたほどです。こちらはせめてと思い、財産と引きかえに「持って帰ってはいけないといわれているので、写真を後から日本へ送ってほしい」と撮りためた写真を託したのですが結局、届きませんでした。送ってくれなかったのか、それとも没収されてしまったのかは分かりません。

 それどころか、父は貿易と軍需の会社をやっていた関係でスパイ容疑をかけられて逮捕、拘束されてしまいました。一番下の妹は三カ月くらいで出発前に死んでしまいましたし、父が死刑になるかどうかも分からない状況のなか、私と母はとにかく引き揚げなければということで、私は両手に妹を連れて、母は父の荷物まで一緒に背負って塘沽(タンクー)の町まで二週間かけて歩きました。銃撃を受けながら、ろくなものも食べられない状況での過酷な「行軍」だったのです。

 幸いなことに、父は共同経営者だった中国人が「鈴木(リンムー)先生は日中のためによくやってくれた。鈴木先生をこのまま殺したら、子々孫々から恨まれる」と一所懸命動いてくれたので刑を免れ、港で合流することができ、何とか一家で日本へ引き揚げてきたのです。

 〈テレビ局の「自主規制」〉

 命からがら日本へ帰った私は、その後大学へ進学し、TBSに入社しました。仕事が忙しく、その後中国を訪れることもなく、日々の生活に追われて天津での日々を振り返る暇もなかったほどでした。社会部で仕事をしているなかで、ふと気がついて周りを見渡したときには、「虐殺はなかったんじゃないか」ということすら言えない雰囲気が出来上がっていました。それがテレビ局の「自主規制」なのか、自虐史観を刷り込まれているからなのか、はたまた中国の謀略にかかってしまったからなのかは分かりません。

 局にいる間はこのことで揉めたこともありましたが、TBSを卒業してからは「もう何を言ってもいいだろう」ということで、講演などでも自分の経験からのお話をさせていただいてきました。それでも、雑誌やテレビが「私が経験から南京大虐殺などなかったと思う理由」について取り上げてくれたことは一度もありませんでした。

 以前、日本テレビ系列の『オジサンズ11』(〇七年十月~〇八年九月まで放映)という番組に出演していた時に、制作プロダクションから「何か番組で取り上げるテーマはありませんか」と聞かれたので、映画『南京』を取り上げてはどうか、と提案したことがありました。

 この映画は他の局で放映されたことはないし、これまでの「南京」のイメージが覆(くつがえ)る。南京の真実が伝わるだろうと思ったのです。プロダクションのスタッフが話に乗ってくれて、私は本当に嬉しかったんです。「これで真実が全国に広がるきっかけになる」と思っていたのですが、会議で上の人間から何か言われたのでしょう、有無を言わさず却下されてしまいました。その後はスタッフが私を見る目が変わり、目が合っても顔を背けるようになってしまった。非常に悲しかったですね。

 報道に携(たずさ)わる以上、「真実」に近づき、「真実」を伝えることが使命だと分かっているはずです。にもかかわらず、「検証」すらせず、中国のプロパガンダ、「嘘」に加担し続けるというのは、報道人としての風上にも置けません。すでに中国の手が回っているのかもしれませんが、「真実」を伝えることが報道に携わるものとしての、いや人間としての務めではないでしょうか。

 〈日中の未来のために〉

 「南京大虐殺」のような「嘘」があるかぎり、日中が手に手を取ってやってくことはできません。日本と中国は永遠に隣同士ですから、その関係を悪化させる中国の反日プロパガンダ、反日教育はたださなければなりませんし、このような状況は日本にとっても中国にとっても、「最大の悲劇」としかいいようがありません。

 私にとって、中国は「第二の故郷」なのです。その中国の方々が、このような「嘘」を永久に教え込まれ続けるとすれば、本当に悲しいことです。映画『南京』の冒頭には、このような字幕が流れます。「我々の同胞が一つになって闘った数々の光輝ある歴史の中でも南京入場は燦然(さんぜん)たる一頁として世界の歴史に残るだらう。その日の記録としてこの映画を我々の子孫に贈る」。

 我々は、どんなに時間をかけても「南京大虐殺は真実ではない」と伝えていかなければならない。それが「我々の子孫」……つまり日本人の未来のためであり、中国人のためでもあるのです。 

 筆者 鈴木史朗


ユネスコ世界記憶遺産として登録されてしまった「南京大虐殺」はなかったという「歴史の真実」を拡散し、誤った歴史観で日本や日本人を憎んでいる人々に歴史の真実を伝えなくてはなりません。

韓国の慰安婦問題なども同じで日本や日本人を貶めるためにやってもないことをでっち上げた。

偽りの歴史を叩き込まれ育った者たちが、日本人というだけで憎み「日本人には何をしてもいい」という感情を持っています。

皆さまもご存知のように、中国、韓国(在日)は圧倒的にそういう人間が多く、彼らは日本の仏像を破壊し、日本女性をレイプし、日本人を殺害している。

国内で起きている事件は、韓国・中国の割合が非常に高く、犯罪が後をたたない。

歴史を捏造する中韓と、この国の左翼や朝日新聞によって、現在に及ぶまで事実に基づかない「中傷」と「不利益」を被っている現実がありますが、中韓との情報戦に負けてはならないのです。

日本を守り他国の人々のために命をかけた先人たちに汚名をきせてはならない。

我々は、どんなに時間をかけても「南京大虐殺は真実ではない」という事実を伝えていかなければなりません。


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邦人多数虐殺「通州事件」 中国共産党の扇動判明 蜂起部隊に工作員接触

日中戦争(1937~45年)の開始直後、北京郊外で邦人多数が虐殺された37年7月の「通州事件」で、蜂起した親日地方政権の中国人部隊が、中国共産党の扇動工作を受けていたことが、中国での研究で明らかになった。日中戦争は今年で開始80年となるが、「抗日民族統一戦線」の結成を急ぐ当時の共産党が、敵対する親日政権の軍・警察組織に離反を働きかけたことで、惨劇につながる蜂起の素地が事前に形成されていたことが裏付けられた。(編集委員 山本秀也)

通州事件を起こした「冀東(きとう)防共自治政府」(所在地・通州)の「保安隊」をめぐっては、国民党政権の軍・地方長官と保安隊幹部の通謀が判明する一方、共産党の関与に関しては、日本では可能性が指摘されながら実態が明示されていなかった。

 共産党の関与を示す研究は、党史や地方史に関する報告として、河北省唐山市の機構が運営する研究サイト「政協唐山文史網」や、歴史専門誌「国家人文歴史」などで、近年相次ぎ公表された。

 それによると、河北省周辺での地下活動を統括した共産党北方局(劉少奇書記)の下で、「黎巨峰(れい・きょほう)」「王自悟(おう・じご)」という工作員が、35年の冀東防共自治政府の成立直後から、保安隊の張慶余(ちょう・けいよ)・第1総隊長、張硯田(ちょう・けんでん)・第2総隊長と関係を構築した。

 この接触で、共産党は「抗日救国に一致団結する大義」を張らに植え込んだほか、保安隊内への浸透も進めた。

さらに、盧溝橋事件に始まる日中戦争以前に華北一帯で頻発した抗日活動も、共産党の工作が奏功したものだと指摘。

 実例として、36年11月、河北省昌黎県を列車で移動中の山海関守備隊長、古田竜三少佐ら日本軍将校5人が、同じ保安隊の兵士に拉致された事件について、共産党に影響された張硯田の指示だったことを明らかにした。

 35~36年当時、毛沢東率いる共産党は、陝西省北部の根拠地で国民党軍の包囲を受けつつ、党勢の立て直しを模索。国民党や親日勢力を取り込む「抗日民族統一戦線」の構築を方針に掲げ、国民党などの支配地域で地下工作を進めていた。

 保安隊工作にあたった黎巨峰は、小学校の教員を務めた地下党員。「通州兵変(クーデター)の推進役」として評価される。事件後は河北省東部(冀東)地区で共産党武装組織の幹部となり、38年8月に同省楽亭県での暴動を組織した。

 張慶余らは、盧溝橋事件(37年7月7日)で日本軍と衝突する二十九軍の軍長などを務めた国民党の宋哲元らと事前に通じ、資金を供与されていたとされる。

 通州事件で、保安隊は7月28日の深夜から行動に移り、第1総隊が日本軍守備隊の攻撃、第2総隊が外部との連絡切断、教導総隊が駅の制圧と日本軍増援部隊の阻止を担当した。共産党が蜂起計画に直接関与したのか、あるいは一般居留民の被害まで想定していたのかはなお不明だ。

 蜂起を指揮した張慶余らは通州事件の後、国民党軍の中将となり、戦後まで生存。中国では「抗日将領」として評価されている。2017.1.4 産経ニュース
https://www.sankei.com/world/news/170104/wor1701040025-n2.html

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1937年7月29日、この日、保安隊の衛兵が12時を期して今晩に限って東西南北の城門を全てを閉じたが、誰も疑念を抱く者はなく城内の人々は眠りについた。

邦人の安全責任を負うはずの保安隊が城内に三千三百名、城外に二千五百名に対し、日本側の警備陣は用務員や小使を含めてたった百二十名しかいなかった。

日本人を襲ったのは、日本人を守る立場の中国人保安隊。

居留民の死者、二百二十五名(うち百十一名が朝鮮人)、守備人関係死者、三十二名、合計 二百五十七名が無残に殺害されたが、この事件で政府に雇われていた中国人は一人も殺されていない。


そして、これは突発的な事件ではなく産経ニュースで掲載されたように周到に練られた陰謀だった。

この事件で学生といわれている者たちは、国民党配下の特殊武闘集団で教導隊に紛れ込んでいた殺人集団…その蔭に蔣介石の指揮指導があった。


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殺人を楽しむ傾向はこの殺人鬼らに限ったことではなく、中国古来の風習に根付いたものと考えられ、明代の皇帝は、この「残虐な殺人を好み」敵対する一族全員を捕らえると肉を削ぎ落とす陵遅刑に処し、1905年~明治まで、こうした刑罰がシナではまかり通っていた。


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日本中を慟哭させたシナの残虐な手口は、夫が中国人で通州に住んでいた佐々木テンさんによる「通州事件 目撃者の証言」より紹介したいと思います。


七月二十九日の朝、まだ辺りが薄暗いときでした。
突然私は沈さんに烈しく起こされました。

大変なことが起こったようだ。
早く外に出ようと言うので、私は風呂敷二つを持って外に飛び出しました。

沈さんは私の手を引いて町の中をあちこちに逃げはじめたのです。
町には一杯人が出ておりました。
そして日本軍の兵舎の方から猛烈な銃撃戦の音が聞こえて来ました。

でもまだ辺りは薄暗いのです。

何がどうなっているやらさっぱりわかりません。

只、日本軍兵舎の方で炎が上がったのがわかりました。

私は沈さんと一緒に逃げながら、

「きっと日本軍は勝つ。負けてたまるか」という思いが胸一杯に拡がっておりました。
でも明るくなる頃になると銃撃戦の音はもう聞こえなくなってしまったのです。

私はきっと日本軍が勝ったのだと思っていました。

それが八時を過ぎる頃になると、シナ人達が、「日本軍が負けた。日本人は皆殺しだ」と騒いでいる声が聞こえて来ました。

突然私の頭の中にカーと血がのぼるような感じがしました。

最近はあまり日本軍兵舎には行かなかったけれど、何回も何十回も足を運んだことのある懐かしい日本軍兵舎です。

私は飛んでいって日本の兵隊さんと一緒に戦ってやろう。

もう私はどうなってもいいから最後は日本の兵隊さんと一緒に戦って死んでやろうというような気持ちになったのです。

それで沈さんの手を振りほどいて駆け出そうとしたら、沈さんが私の手をしっかり握って離さないでいましたが、沈さんのその手にぐんと力が入りました。

そして、「駄目だ、駄目だ、行ってはいけない」と私を抱きしめるのです。

それでも私が駆け出そうとすると沈さんがいきなり私の頬を烈しくぶったのです。

私は思わずハッして自分にかえったような気になりました。

ハッと自分にかえった私を抱きかかえるようにして家の陰に連れて行きました。

そして沈さんは今ここで私が日本人ということがわかったらどうなるかわからないのかと強く叱るのです。

それで私も初めてああそうだったと気付いたのです。

私は沈さんと結婚してシナ人になっておりますが、やはり心の中には日本人であることが忘れられなかったのです。

でもあのとき誰も止める者がなかったら日本軍兵舎の中に飛び込んで行ったことでしょう。

それは日本人の血というか、九州人の血というか、そんなものが私の体の中に流れていたに違いありません。

それを沈さんが止めてくれたから私は助かったのです。

八時を過ぎて九時近くになって銃声はあまり聞こえないようになったので、これで恐ろしい事件は終わったのかとやや安心しているときです。

誰かが日本人居留区で面白いことが始まっているぞと叫ぶのです。
私の家から居留区までは少し離れていたのでそのときはあまりピーンと実感はなかったのです。

そのうち誰かが日本人居留区では女や子供が殺されているぞというのです。

何かぞーっとする気分になりましたが、恐ろしいものは見たいというのが人間の感情です。

私は沈さんの手を引いて日本人居留区の方へ走りました。

そのとき何故あんな行動に移ったかというと、それははっきり説明は出来ません。

只何というか、本能的なものではなかったかと思われます。

沈さんの手を引いたというのもあれはやはり夫婦の絆の不思議と申すべきでしょうか。

日本人居留区が近付くと何か一種異様な匂いがして来ました。

それは先程銃撃戦があった日本軍兵舎が焼かれているのでその匂いかと思いましたが、それだけではありません。

何か生臭い匂いがするのです。

血の匂いです。
人間の血の匂いがして来るのです。

しかしここまで来るともうその血の匂いが当たり前だと思われるようになっておりました。

沢山のシナ人が道路の傍らに立っております。

そしてその中にはあの黒い服を着た異様な姿の学生達も交じっています。
いやその学生達は保安隊の兵隊と一緒になっているのです。

そのうち日本人の家の中から一人の娘さんが引き出されて来ました。
十五才か十六才と思われる色の白い娘さんでした。

その娘さんを引き出して来たのは学生でした。
そして隠れているのを見つけてここに引き出したと申しております。

その娘さんは恐怖のために顔が引きつっております。

体はぶるぶると震えておりました。

その娘さんを引き出して来た学生は何か猫が鼠を取ったときのような嬉しそうな顔をしておりました。そしてすぐ近くにいる保安隊の兵隊に何か話しておりました。

保安隊の兵隊が首を横に振ると学生はニヤリと笑ってこの娘さんを立ったまま平手打ちで五回か六回か殴りつけました。

そしてその着ている服をいきなりバリバリと破ったのです。

シナでも七月と言えば夏です。暑いです。

薄い夏服を着ていた娘さんの服はいとも簡単に破られてしまったのです。

すると雪のように白い肌があらわになってまいりました。
娘さんが何か一生懸命この学生に言っております。

しかし学生はニヤニヤ笑うだけで娘さんの言うことに耳を傾けようとはしません。

娘さんは手を合わせてこの学生に何か一生懸命懇願しているのです。
学生の側には数名の学生と保安隊の兵隊が集まっていました。

そしてその集まった学生達や保安隊の兵隊達は目をギラギラさせながら、この学生が娘さんに加えている仕打ちを見ているのです。

学生はこの娘さんをいきなり道の側に押し倒しました。
そして下着を取ってしまいました。
娘さんは「助けてー」と叫びました。

と、そのときです。
一人の日本人の男性がパアッと飛び出して来ました。
そしてこの娘さんの上に覆い被さるように身を投げたのです。

恐らくこの娘さんのお父さんだったでしょう。

すると保安隊の兵隊がいきなりこの男の人の頭を銃の台尻で力一杯殴りつけたのです。

何かグシャッというような音が聞こえたように思います。
頭が割られたのです。

でもまだこの男の人は娘さんの身体の上から離れようとしません。
保安隊の兵隊が何か言いながらこの男の人を引き離しました。
娘さんの顔にはこのお父さんであろう人の血が一杯流れておりました。

この男の人を引き離した保安隊の兵隊は再び銃で頭を殴りつけました。
パーッと辺り一面に何かが飛び散りました。
恐らくこの男の人の脳髄だったろうと思われます。

そして二、三人の兵隊と二、三人の学生がこの男の人の身体を蹴りつけたり踏みつけたりしていました。
服が破けます。
肌が出ます。
血が流れます。

そんなことお構いなしに踏んだり蹴ったりし続けています。

そのうちに保安隊の兵隊の一人が銃に付けた剣で腹の辺りを突き刺しました。
血がパーッと飛び散ります。

その血はその横に気を失ったように倒されている娘さんの身体の上にも飛び散ったのです。

腹を突き刺しただけではまだ足りないと思ったのでしょうか。
今度は胸の辺りを又突き刺します。

それだけで終わるかと思っていたら、まだ足りないのでしょう。
又腹を突きます。胸を突きます。何回も何回も突き刺すのです。

沢山のシナ人が見ているけれど「ウーン」とも「ワー」とも言いません。
この保安隊の兵隊のすることをただ黙って見ているだけです。

その残酷さは何に例えていいかわかりませんが、悪鬼野獣と申しますか。
暴虐無惨と申しましょうか。
あの悪虐を言い表す言葉はないように思われます。

この男の人は多分この娘さんの父親であるだろうが、この屍体を三メートル程離れたところまで丸太棒を転がすように蹴転がした兵隊と学生達は、この気を失っていると思われる娘さんのところにやってまいりました。

この娘さんは既に全裸になされております。
そして恐怖のために動くことが出来ないのです。

その娘さんのところまで来ると下肢を大きく拡げました。
そして陵辱をはじめようとするのです。

シナ人とは言へ、沢山の人達が見ている前で人間最低のことをしようというのだから、これはもう人間のすることとは言えません。

ところがこの娘さんは今まで一度もそうした経験がなかったからでしょう。
どうしても陵辱がうまく行かないのです。

すると三人程の学生が拡げられるだけこの下肢を拡げるのです。

そして保安隊の兵隊が持っている銃を持って来てその銃身の先でこの娘さんの陰部の中に突き込むのです。

こんな姿を見ながらその近くに何名ものシナ人がいるのに止めようともしなければ、声を出す人もおりません。
ただ学生達のこの惨行を黙って見ているだけです。

私と沈さんは二十メートルも離れたところに立っていたのでそれからの惨行の仔細を見ることは出来なかったのですが、と言うよりとても目を開けて見ておることが出来なかったのです。

私は沈さんの手にしっかりとすがっておりました。
目をしっかりつぶっておりました。

するとギャーッという悲鳴とも叫びとも言えない声が聞こえました。
私は思わずびっくりして目を開きました。

するとどうでしょう。
保安隊の兵隊がニタニタ笑いながらこの娘さんの陰部を切り取っているのです。

何ということをするのだろうと私の身体はガタガタと音を立てる程震えました。

その私の身体を沈さんがしっかり抱きしめてくれました。
見てはいけない。
見まいと思うけれど目がどうしても閉じられないのです。
ガタガタ震えながら見ているとその兵隊は今度は腹を縦に裂くのです。

それから剣で首を切り落としたのです。

その首をさっき捨てた男の人の屍体のところにポイと投げたのです。
投げられた首は地面をゴロゴロと転がって男の人の屍体の側で止まったのです。

若しこの男の人がこの娘さんの親であるなら、親と子がああした形で一緒になったのかなあと私の頭のどこかで考えていました。


220px-東京朝日新聞_通州事件の記事


当時中国を取材していたアメリカ人ジャーナリストフレデリック・ヴィンセント・ウィリアムズは1938年11月にBehind the News in Chinaを刊行し以下のように報道している。

日本人は友人であるかのように警護者のフリをしていた支那兵による通州の日本人男女、子供等の虐殺は、古代から現代までを見渡して最悪の集団屠殺として歴史に記録されるだろう。それは1937年7月29日の明け方から始まった。そして一日中続いた。日本人の男性、女性、子供たちは野獣のような支那兵によって追い詰められていった。家から連れ出され、女子供はこの兵隊の暴漢どもに暴行を受けた。それから男たちと共にゆっくりと拷問にかけられた。ひどいことには手足を切断され、彼等の同国人が彼等を発見したときには、ほとんどの場合、男女の区別もつかなかった。多くの場合、死んだ犠牲者は池の中に投げ込まれていた。水は彼等の血で赤く染まっていた。何時間も女子供の悲鳴が家々から聞こえた。支那兵が強姦し、拷問をかけていたのだ。

— Frederick Wiliams、Behind the News in China, New York: Nelson Hughes Company,1938.



ひとつの場所に集められ一日中拷問を続けたシナの殺人鬼らについて書いておきたいのですが、日本では敵側に寝返りをうったり投降したりすることは武士道の最も恥ずべき行為とされ、日本人はそれを嫌います。

しかし、シナでは「反正」といって正しきにかえるとし、シナには手のひらを返す行為が「恥という文化がない」ことを覚えておいてほしいと思います。

日本人が味方と信じていた保安隊が2年も前から各地で同時に反乱を起こす機会を狙っており、通州にとどまることなく、天津の日本租界・軍関係機関をはじめ、大沽、塘沽、軍糧城など邦人が多数居留する区域を一斉に襲撃する計画があった。

しかし、こうした「事実」があったにもかかわらず、歴史から忘れ去られなかったかのように日本国内で「問題」にされてない。

中国が歴史を捏造し、日本に酷い非難を浴びせても外務省は反撃しない。
反撃の材料のひとつである「通州事件」にしても一度も言及していない。
学校でも通州事件を含め教えていない。

そして、もっとも許しがたいのは「通州事件」でのできごとが「南京大虐殺」とすりかえられ、ユネスコに世界遺産として登録されてしまったことです。


かつて盧溝橋事件を発端とした「抗日運動」があったように、今また「反日運動」が中共政府によって展開されていることを考えれば同じことが起こりかねない。

少し前に、「多くの悪しき隣人の中に、日本人のために命をかけてくれた良き隣人がいた」という記事を書きました。

http://kokorone.blog.jp/archives/25025538.html?ref=popular_article&id=7512867-1268700

通州事件のときに、命をかけて日本人を守ってくれた中国の人がいます。

しかし、それとこれは別に考えなくてはなりません。

シナ人をひとくくりに考えてはいけませんが、捏造に対して断固として声をあげ反撃していかねばなりません。


歴史の真実に目を背けず、歴史の事実を拡散し、日本悪玉論を軸とするシナの捏造を断じて許してはならない。


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拙ブログの読者の方であれば「またか?」と思われるかも知れませんが、以前お伝えしたように南京大虐殺についてはシツコク書いていく予定ですので「またか…」と思われる方も、ぜひお付き合いください。

人は「一度読んだら分かった気になる」ものですが、読んだだけでは他人に説明することはできないでしょう。

理解というのは、他人に説明できてはじめて理解しているというのだと私は思います。

しかし、記憶のメカニズムとして「人は生死に関わるような重要な情報以外は瞬く間に忘れていく」ようにできいますから、人から教えてもらったりすると「覚えているつもり」になり、また同じことを聞くということがあります。

凄く馬鹿にされて悔しかったとか、大切な人を失ってとても辛かった悲しかったという情動が記憶と結びついていると深く記憶に刻まれて忘れにくくなります。

ですから、英語圏の外国人の恋人ができると途端に英語がうまくなる方がいるわけです。

以前、村上春樹氏が「南京事件」について書かれた小説が物議をかもしましたが、私は村上春樹氏の小説には興味がないので読んだことはありません…

しかし、世界的にも知名度の高い村上春樹氏の著書が出版されたことで、誤った歴史観が世界に飛び火しないことを願いました。

南京大虐殺は「通州での日本人の惨事と中国人を入れ替えた史実」ではないかと私は考えており、歴史的に見てもシナでは近代まで引き継がれてきた残虐な行為を日本人がしたとは到底考えられません。

また、通州事件のときは、どの新聞も一面で取り上げられていたのに対し、陥落当時の人口は「20万から25万」という当時の人口より多い30万人もの南京大虐­殺があったというのに、その記事は全く新聞に載らなかった ことも不自然です。

1938年、蒋介石が外国の記者と300回に及ぶ会見で一言も南京のことは言及していないことからも、もし30万人もの南京大虐­殺が事実であったなら、そのとき激しく抗議をしていなければおかしいのです。

南京大虐殺など起こっていなかったと考えれば辻褄が合いますし、それだけの事件であれば、当時、大変な騒ぎになっていたはずでしょう。

日本は、敗戦後、自虐史観を植えつけられ誤った歴史観を抱いている方がいますが、誤った歴史観から脱却しそういう虐殺・殺戮が得意な国は何処か?ということを知ってください。

東京裁判は、日本のためアジアの独立のために命をかけた人々を戦犯とし、戦勝国が見せしめのリンチをした。

その際に、証人として発言したマギー牧師は、サトン検事の質問に従って、南京市内で日本兵がおこなった一般市民に対する殺害や婦女暴行について事細かく証言していますが、200,000人に及ぶ中国人の安全地区にいた間に牧師は、100件以上の事件を生々しく伝えておきながら、自分で実際に見た事件はたった3件(殺人1、窃盗1、婦女暴行1)しかなく、後は被害者から聞いた話だと証言した。

そして、直接の被害にあったと言うものは1人も証人として現れなかった。

東京裁判では、直接の被害者ではなく被害者から聞いた話を伝えただけの人間が証人として立った。

この間に日本の新聞やラジオは、毎日のように南京事件のニュースを全国に流しましたが、証拠として価値のないものばかりでした。

また、ウェップ裁判長は、弁護側の証人に対しては邪魔をするように何度も口を挟み時間を制限し検察側の証人についてどんなものでも受け入れた。

南京大虐殺を始めとして東京裁判では、でたらめな証言をする証人が多かったのですが、その理由は、この裁判では嘘をついても偽証罪に問われることがなかったからです。

東京裁判は白人に楯突いた日本人を二度と歯向かわせないための復讐でありリンチであり、そのため南京大虐殺という捏造した歴史が利用されたのです。

私は、全ての人に歴史の真実を知ってほしいと願います。
20111217184207629


 鈴木史朗氏 【南京大虐殺は真実ではないと思う理由】

 〈もう一度南京へ〉
 TBSのバラエティ番組『からくりテレビ』の名物コーナーで、私が司会を務めていた「ご長寿早押しクイズ」。毎週数名のご長寿の方にご登場いただき、クイズに答えていただく人気コーナーでしたが、今から十一、二年前、南京戦に参加されていたという会津若松の方にお会いしたことがありました。

 撮影の合間に南京の話になり、私が「あそこは大変なことがあったから、もう南京には行けませんね」と声をかけると、その方が「いや、私は死ぬまでにもう一度南京へ行きたいんであります」とおっしゃった。私は驚いて、「どうしてですか」と聞いたところ、こんな話をして下さいました。

 「衛生兵として南京で日本兵を助けたが、怪我をした中国の敗残兵も助けた。軍のトラックで送ってやったら中国人の家族が非常に感謝して、家宝の掛け軸をくれたんです。さらに『戦争が終わったら、ぜひもう一度南京へ来てほしい。歓待したい。一日千秋(いちじつせんしゅう)の思いで待っている』とまで言われたんです。だから、私は死ぬまでにもう一度南京に行きたい」

 このことでハッと思い出したのは、私自身が幼いころ、南京戦直後に中国にわたり、天津で過ごした日々のことでした。それは、「大虐殺」があったなどとは到底考えられないほど、大変のどかな日々だったのです。

 この方にはその後、もう一度お会いする機会があったので、「南京大虐殺」の証拠写真とされている、松葉杖をついた片足の中国兵と、笑顔の日本兵が並んで移っている写真を持って行ったんです。キャプションには、「残虐な日本兵によって、逃げられないように片足を斬り落とされた中国兵」と書かれていました。

 ところが、この写真を見せたところ、南京戦に参加されたその方がとても喜んだんです。「この兵隊のことは良く覚えていますよ。アルマイトがなかったので、ヤカンをつぶして義足を作ってやったんです。いやー、よかった。この写真、いただいてもいいですか」

  他にも、実際に参戦された方々からさまざまなエピソードやをお話しいただきました。「たしかに、南京戦で相手の兵士を殺した。だが、それはあくまでも中国の兵士であって、日本兵も戦死しています」、「トーチカから撃ってくる兵士を仕留めて近づくと、機関銃手はまだあどけない顔の若者で、鎖でつながれていた。武士の情で彼らの墓を作ってやりました」。

 「南京戦後、中国人から『兵隊さんありがとう。あなたの靴を磨かせてください』と言われて、泥だらけだからと断ったのだが、どうしてもといわれたので磨いてもらった。気持ちが嬉しくて、飴玉をあげました」。

 そして、少しずつ勉強する時間が取れるようになり、勉強しはじめてみると、東中野修道氏や北村稔氏、また『WiLL』に連載されている西尾幹二氏ら「現代史研究会」の研究成果が自分の体験と重なって、歴史を学べば学ぶほど、また中国での日々を思い出せば思い出すほど、「大虐殺なんてあり得ない」という確信を得るにいたったのです。

 〈天津での日々〉

 私は、一九三八年(昭和十三)年二月十日に京都で生まれました。直後に、父が「大陸で一旗挙げたい」といって、それまで勤めていた有名な生命保険会社を辞めて単身、大陸へわたったのです。残された母は、私が一歳になるのを待って、一九三九年四月頃までには大陸へわたりました。南京戦が行われたのが一九三七年十二月のことですから、その一年半後には、もう私の母は女一人、子供を抱いて中国にわたっていたことになります。



 
そして、天津の日本人租界での暮らしが始まりました。元々フランス人租界だったところを日本人租界にしたそのあたりは非常にのどかで、その様子が伺える当時の写真も数枚残っています。引き揚げの時に持ち出しを禁止されたので、写真はかぎられたものしか残っていませんが、一枚目(上)は天津市淡路街という日本人租界の民団住宅前で撮影したものです。私と二人の妹と、近所の中国人の子が一緒に写っています。中国人の子の母親が非常に良くしてくれて、妹たちにおそろいの中国服を作ってくれました。

 もう一枚(下)は天津市須磨街の自宅付近で撮ったもの。近所の中国人の楊車(輪タク)夫が楊車に私たちを乗せて遊ばせてくれている光景です。背景も写っていますが、近所の中国人もよく日本人租界へやってきて、「日本人街の水道はきちんと整備されているから」などといって、水道の水などをもらって帰っていました。

 「天明公社」という貿易と軍需関係の合弁会社を設立した父の事業もうまくいっていて、わが家は結構裕福な暮らしをしていました。父が行き倒れになった中国人夫婦を助けて、自宅のガレージの一角に部屋を作って住まわせていたこともありました。その夫婦は恩義に感じてくれたのか、三人の子供にそれぞれ「小一」「小二」「小三」と日本風の名前を付けていて、私と同じ歳だった「小二」とはよく遊んだ思い出があります。

 当時の天津は本当に安全で、私は子供の足で歩いて二十分ほどの幼稚園まで、毎日一人で通っていたほどでした。道すがらの中国人が私に対して何かを言ってきたり、身の危険を感じるうようなこともありませんでした。虐殺などが本当に起こっていたとすれば、日本人に対して何らかの罵声が浴びせられたり、少なくとも親から「一人で出歩いては危ない」などと言われたはずですが、そのようなことはありませんでした。

 それどころか、中国人に助けてもらったこともあります。家の近くを運河が流れていたのですが、土手でかけっこをして遊んでいて、川に落ちてしまった。溺れていたところを中国人の船頭さんが助けてくれて、自宅まで連れて帰ってくれたのです。川の水を飲んで赤痢(せきり)にはなってしまいましたが。

 たまに町で日本兵を見かけることもありましたが、中国人の友達も「カッコイイね。僕も将来はあんな兵隊さんになりたい」ということを言っていたくらいで、規律正しい日本兵の姿には、中国人も日本人も、ある種の敬意と畏(おそ)れを持っていたようです。天津には七年間住んでおり、子供ながらにシンガポール陥落など戦況についてよく話していましたが、「南京大虐殺」については一度も聞いたことがありませんでした。

 〈中国人女性にモテた父〉  

  父の会社の本社や事務所があった北京にも時々行きました。王府井(ワンフーチン)界隈の大通りに面したところに事務所がありましたが、当時の北京は賑やかで華やかで、やはり穏やかでした。太ももまでスリットの入ったチャイナ服の中国人の女性が自転車で走り去るのを見て、子供心に「すごいお姉さんだなあ」と思っていた記憶があります。

 父は、とにかく北京では中国人女性にモテてモテて、母はとても苦労していたようです。父は俳優の上原謙のような男前でしたし、明治の男ですから仕方がないとはいえ、恋愛結婚で一緒になって、大陸まで父を追いかけた母にとってはたまらなかったでしょう。

 ただ、もし本当に南京で日本人が民間人の大虐殺を行い、女性を強姦していたとしたら、中国人女性が日本人男性である父にそれほどまでにほれ込んだりはしなかったでしょうし、中国人同士の間でも「日本人なんかに熱を上げて」と非難されたはずです。しかし、そのようなことは全くなかったばかりか、父は中国人のためにも一所懸命働きましたので、老若男女問わず、中国人からは非常に尊敬されていたのです。

 〈南京ののどかな光景〉

 胡同(フートン)にある本社の隣には、北京の警察署がありました。父と署長は仲が良く、どこかへ一緒に列車で出かけたこともありました。署長さんはお金持ちだったからか、一号さんと二号さんを隣りに乗せていて、どちらもとても素敵な女性でしたが、口紅ばかり塗っていて子供の私には目もくれず、冷たくあしらっていました。「可愛がってくれないんだなあ」と思ったのを覚えています。

 しかし、そう感じたということは、逆に言えばそれ以外の中国人の大人たちは、日本人である子供の私を非常に可愛がってくれていたということでしょう。 三、四歳の頃には南京へも行っているんです。まだ記憶はおぼつかない頃ですが、親父に後から聞いた話は覚えています。

 「お前を南京に連れて行った時、泣かずに頑張った。南京のある中国人が、そんなお前の態度を見てとても気に入ってほめてくれたんだ。しかも、『耳の形がいい。こういう人物と付き合うと、自分の運気も上がるから、是非抱かせてくれ』といって抱き上げてくれたんだよ」

 また、父は南京で聞いた話をもとに、よくこんなことを言っていました。「聞いたところによると、日本の兵隊さんが食糧を分けてくれたので、南京の人々は助かったんだそうだ。お前もいい兵隊さんになるためには、強いだけではダメで、思いやりをもたなければいけないよ」

 この話は非常に印象的だったのですが、後のこの話に通じる事実があったことを知りました。あのジョン・ラーベも日本軍宛に「私どもは貴下の砲兵隊が安全地区を攻撃されなかったという美挙に対して、また同地区における中国民間人の援護に対する将来の計画につき、貴下と連絡をとり得るようになりましたことに対して感謝の意を表するものであります」との書簡を送っており、報告書でも、日本軍からの米と小麦の配給があったことに触れています。

 もし本当に大虐殺が起こっていたとしたら、いくら書簡の挨拶文とはいっても「感謝」など示すはずがありません。


 〈命からがら引き揚げ〉

 歴史的根拠に関して言えば、二〇〇七年十二月に出版された『WiLL』増刊号「『南京大虐殺』に終止符!」で、映画『南京』が紹介されています。私もこの映画を見ましたが、あの映画ののどかな光景は、まさに私が天津で暮らしていた頃の記憶と重なるのです。とてもじゃないが、「虐殺があった」とは思えない光景が記録されています。

 増刊号でチャンネル桜の水島総氏も指摘されているとおり、この映画にはワイドショットが多用されているのですが、報道記者としての経験から言っても、ワイドショットでは不都合なものがあった場合、それが映りこんでしまうので、ドキュメンタリーを撮る場合には普通、あのような撮影はしません。「不都合なものなどない」から、安心してワイドショットで撮影していたのだと分かります。

 優しく、子供好きの日本兵、そして日本人と中国人が楽しそうに交流している様子。もし本当に虐殺があったなら、中国の人々も日本兵も、あのような自然な笑顔で交流することなどできなかったはずです。

 終戦を迎えると、さすがに中国人は現実的ですから、コロリと態度が変わりました。わが家に住んでいた中国人家族も、「引き揚げるなら財産を全て置いて行け」などと言いだしたほどです。こちらはせめてと思い、財産と引きかえに「持って帰ってはいけないといわれているので、写真を後から日本へ送ってほしい」と撮りためた写真を託したのですが結局、届きませんでした。送ってくれなかったのか、それとも没収されてしまったのかは分かりません。

 それどころか、父は貿易と軍需の会社をやっていた関係でスパイ容疑をかけられて逮捕、拘束されてしまいました。一番下の妹は三カ月くらいで出発前に死んでしまいましたし、父が死刑になるかどうかも分からない状況のなか、私と母はとにかく引き揚げなければということで、私は両手に妹を連れて、母は父の荷物まで一緒に背負って塘沽(タンクー)の町まで二週間かけて歩きました。銃撃を受けながら、ろくなものも食べられない状況での過酷な「行軍」だったのです。

 幸いなことに、父は共同経営者だった中国人が「鈴木(リンムー)先生は日中のためによくやってくれた。鈴木先生をこのまま殺したら、子々孫々から恨まれる」と一所懸命動いてくれたので刑を免れ、港で合流することができ、何とか一家で日本へ引き揚げてきたのです。

 〈テレビ局の「自主規制」〉

 命からがら日本へ帰った私は、その後大学へ進学し、TBSに入社しました。仕事が忙しく、その後中国を訪れることもなく、日々の生活に追われて天津での日々を振り返る暇もなかったほどでした。社会部で仕事をしているなかで、ふと気がついて周りを見渡したときには、「虐殺はなかったんじゃないか」ということすら言えない雰囲気が出来上がっていました。それがテレビ局の「自主規制」なのか、自虐史観を刷り込まれているからなのか、はたまた中国の謀略にかかってしまったからなのかは分かりません。

 局にいる間はこのことで揉めたこともありましたが、TBSを卒業してからは「もう何を言ってもいいだろう」ということで、講演などでも自分の経験からのお話をさせていただいてきました。それでも、雑誌やテレビが「私が経験から南京大虐殺などなかったと思う理由」について取り上げてくれたことは一度もありませんでした。

 以前、日本テレビ系列の『オジサンズ11』(〇七年十月~〇八年九月まで放映)という番組に出演していた時に、制作プロダクションから「何か番組で取り上げるテーマはありませんか」と聞かれたので、映画『南京』を取り上げてはどうか、と提案したことがありました。

 この映画は他の局で放映されたことはないし、これまでの「南京」のイメージが覆(くつがえ)る。南京の真実が伝わるだろうと思ったのです。プロダクションのスタッフが話に乗ってくれて、私は本当に嬉しかったんです。「これで真実が全国に広がるきっかけになる」と思っていたのですが、会議で上の人間から何か言われたのでしょう、有無を言わさず却下されてしまいました。その後はスタッフが私を見る目が変わり、目が合っても顔を背けるようになってしまった。非常に悲しかったですね。

 報道に携(たずさ)わる以上、「真実」に近づき、「真実」を伝えることが使命だと分かっているはずです。にもかかわらず、「検証」すらせず、中国のプロパガンダ、「嘘」に加担し続けるというのは、報道人としての風上にも置けません。すでに中国の手が回っているのかもしれませんが、「真実」を伝えることが報道に携わるものとしての、いや人間としての務めではないでしょうか。

 〈日中の未来のために〉

 「南京大虐殺」のような「嘘」があるかぎり、日中が手に手を取ってやってくことはできません。日本と中国は永遠に隣同士ですから、その関係を悪化させる中国の反日プロパガンダ、反日教育はたださなければなりませんし、このような状況は日本にとっても中国にとっても、「最大の悲劇」としかいいようがありません。

 私にとって、中国は「第二の故郷」なのです。その中国の方々が、このような「嘘」を永久に教え込まれ続けるとすれば、本当に悲しいことです。映画『南京』の冒頭には、このような字幕が流れます。「我々の同胞が一つになって闘った数々の光輝ある歴史の中でも南京入場は燦然(さんぜん)たる一頁として世界の歴史に残るだらう。その日の記録としてこの映画を我々の子孫に贈る」。

 我々は、どんなに時間をかけても「南京大虐殺は真実ではない」と伝えていかなければならない。それが「我々の子孫」……つまり日本人の未来のためであり、中国人のためでもあるのです。 

 筆者 鈴木史朗

当時を知る方たちは、もうほとんどいない…しかし、事実が捻じ曲げられ真実が歴史の中に埋もれていくことは避けなくてはいけません。

日本は、歴史を捏造する中国・韓国のみならず、この国の左翼や朝日新聞などによって現在に及ぶまで事実に基づかない「中傷」と「不利益」を被っているのですから。


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まず最初に、中野区長選に敗れましたが、吉田康一郎氏ともに戦ってくださった皆さまに御礼を申し上げたいと思います。

新人で元区職員、酒井直人氏(46)=立憲民主、国民民主推薦が、現職の田中大輔氏(66)=維新推薦、新人で元都議、吉田康一郎氏(51)、新人で元区議、市川稔氏(63)の3人を破り、初当選を果たしたことは、吉田康一郎氏を応援してくださった皆さまにとって大変に残念なことでしょう。

当初からこの選挙が
吉田氏にとって困難なものであることは承知していましたので、私は吉田氏だけに絞って応援を続けました。

ゆえに、承知していたものの本当に悔しくて言葉で言い表すことができません。

情報というものは基本であり、拙ブログでは何度も心理なども含めて書いていますが、情報だけでも難しいというのを感じています。

昨年の衆院選で知り合いに「今は自民党でなければ」と、なぜ自民党でなければならないかを伝えましたが「でも、うちは家族で○○に入れるってことになってるから」と言われてしまいました。

私たちが支持する人を皆が支持するわけではないというのは皆さまも理解されているかと思います。

しかし、情報を何度もシッカリ伝えていかなければ「でも、うちは家族で○○に入れるってことになってるから」というように、国益になるわけでなく日本人のためになる政策を訴える人でもない連中に国政を担わせてしまい「血税」で何連休もとらせてしまうことになる。

自立していない方は、私の知人のように「親に頼まれてるから」で済ましてしまう。

そのツケが、いつか日本の崩壊という形で目に見えるころには、もう手遅れです…

ネットで拡散することも大切ですが、知りえた情報を家族に共有し友人知人両親にも伝えていかなければ日本が危機的状況にあることを変えることは難しいでしょう。

私も、食事の際には父によく中韓の話をします。

新聞も読売(朝日と読売をとっています)だけでいいと言っています。


私たちの親世代がいなくなったとき、本当に情報に長けた若者ばかりが「日本の未来を考えて」選挙へいくでしょうか?

今回の中野区選挙を見ても投票率は決して高いとはいえないでしょう。

開票結果(中野区長選挙 得票順 6月11日 午前10時確定 開票率100%)

開票結果
当落候補者名所属党派得票数
酒井 直人無所属36,758
田中 大輔無所属27,801
吉田 康一郎無所属14,534
市川 みのる無所属

12,064

投票結果(中野区長選挙 6月10日午後9時23分確定)


投票結果
当日有権者数 (人)投票者数 (人)投票率 (%)
135,439134,296269,73544,68748,23692,92332.9935.9234.45

これだけ情報が氾濫したネット社会になっても受け取る方は一握りだということです。

一番恐れなくてはならないことは「無関心」であることです。

本当に日本を守りたいのであれば、正しい情報を何度も何度も繰り返し伝えていくしかありません。

それも、できる限り会って話すことが大事だと思います。

少し前にアップした記事に「竹林はるか遠く 日本人少女ヨーコの戦争体験記」(ハート出版)の著者が、米国で在日韓国人によって吊るし上げられ、謝罪を要求され、糾弾の場に「たったひとり」で行かなくてはならなかったことを書きました。

捏造が定着するのは何故か?「竹林はるか遠く 日本人少女ヨーコの戦争体験記」の著者が吊るし上げられた経緯

http://livedoor.blogcms.jp/blog/jibunjiku/article/edit?id=23905482


アメリカにも日本人は沢山いるはずなのに、なぜヨーコはたったひとりで糾弾されなければならなかったのでしょう…

『竹林はるか遠く 日本人少女ヨーコの戦争体験記』は『私がキョウコだったころ』という副読本に変えられ、日本の統治時代にどれほどひどい目にあわされたかと言う内容の本になってしまった。

そして、一つしかない事実を歪めてきたのは中韓ばかりではありません。

日本も声をあげず、官僚や政治家が中韓に気を使って摩擦を避けてきた結果、ユネスコに南京大虐殺という捏造を登録させてしまった…

私は、何年かけても何度でも「南京大虐殺はなかった」という記事もあげていくつもりです。

最後に、別冊世論31で櫻井よしこ氏が語られた内容を一部抜粋しご紹介してたいと思います。

(櫻井)日本の政治家が安倍さんの前は、中国と摩擦を起こさない、韓国とも波風を立てないためには譲歩も厭わない姿勢だった。まず政治がダメでした。日本はこういう立派な国ですよと、慰安婦は民間の仕事で強制連行はなかったと、南京大虐殺は学術的な研究で「三十万人」などとっくに否定されていると、言わなかったのです。安倍政権下でもユネスコで「南京大虐殺」が登録されてしまいました。
その失敗を阿部さんは非常に憤慨された。

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私たちは、もう沈黙していてはならないのです。

正しい歴史を世界に拡散し、中韓による捏造の歴史から日本を取り戻す必要があります。

そして、この国の行く末を本当に考えている吉田康一郎氏のような人が落選することのないようサポートし続けていかなくてはなりません。


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