心の風景

カテゴリ: 歴史

今、一番読んでほしい一冊をご紹介をしたいと思います。

日本という国に祖国に尽くした幾百万の英霊に、幾千万の先人に感謝を捧げるべきだったが、果たせなかった。多くの日本人が裏切った。東京裁判が開かれるなかで、日本人の近代史は偽りに満ちた悪意のもとに書き換えられいった。
(本書より抜粋 ー凛として愛ー)

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愛国女性のつどい 花時計代表 岡真樹子 著

ジャーナリスト山際澄夫氏推薦の著書である「 日本の敵を今知るための150問150答」は、分かりやすく読みやすいので、小中に通うお子さんと一緒に読んでいただきたいと思います。

政治を語るうえでは、歴史的背景などが重要になってくるものですが、小さなお子さん、あるいは最近まで「お花畑」で何も知らなかったという方に説明する際に「国民が日本を取り戻す運動を始めるときの入門書」として、これほど分かりやすく書かれたものは他にないでしょう。

150問150答には細やかな説明がありますので、政治も歴史もよく知っているという方にも、お読みいただきたいと思います。

「はじめに」を書いた山際澄夫氏は、2010年、民主党政権の頃、毎週のように東京・渋谷付近で反中国デモに参加していて、ベビーカーを押してデモに参加する女性のグループ「愛国女性のつどい花時計」の存在を知った。その後、「花時計」主催の街宣にも参加したが、彼女たちの訴えは政治運動にありがちな大声を張り上げてのアジテーションと違って、パネルなどを用意して街頭授業のように分かりやすく訴えるものだった。それも「韓国のウソにご用心」とか「靖国神社に行こう」などとソフトタッチだった。 この書は「花時計」代表の岡真樹子さんが、花時計のサイトに書き溜めたものを再編集したものである。150問もあるため、1問あたりのページ数は少ないが、それでも短すぎて物足りないということはなく、大事なことがコンパクトにまとめられ、密度の高い内容になっている。分かりやすく読みやすい文章で、深い内容がスイスイ頭に入っていくお得な書と言える。と絶賛しています。


日本を「侵略国家」とした背景など、アメリカ・ソ連の戦争犯罪や国際法違反を隠蔽、アメリカが犯した原爆投下、東京大空襲を初めとする民間人への無差別攻撃は明らかな国際法違反についても書かれており、明らかな国際法違反であるにも関わらず「東京裁判では勝者が裁かれることはなかった」ことなど、山際澄夫氏ではありませんが、本当に大事なことがコンパクトにまとめられている一冊といえます。

また、日本国内で「祖国の敗戦によって利益を得た日本人」につて書かれており、GHQが占領期間中に行った検閲を手伝った者、GHQの公職追放によって職場を追われた人たちの後釜におさまった者、戦前からコミンテルンの指令によって日本解体を企てていた共産主義者などがあげられており、戦後、日本を破壊しようと目論んだ工作が如何に社会の隅々にまで滲透しているかが、この一冊の中につまっています。

ネットが普及しオールドメディアによる情報独占体制が瓦解した今なお、何も知らず誤った歴史観を刷り込まれ事実ではない歴史を信じている方たちは、本当に目を覚まさなくてはいけません。



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大空のサムライは、第二次世界大戦中の旧日本軍の海軍パイロット坂井三郎氏が戦後に書いたものです。

撃墜王と呼ばれた坂井氏が、その半生を振り返り戦時中の状況を克明に記している本書は、坂井氏のストイックな在り方に心打たれます。

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数多くの戦死者を出した空戦から何度も生還し、ついには撃墜王と呼ばれるに至ったのは、坂井氏のたゆまぬ努力の結果でしょう。

戦いがない日は空を凝視し続け昼間でも星が見えるほど目のトレーニングを積んでいたという坂井氏は、空戦では誰よりも敵機を見つけるのが早かったといいます。

坂井氏は九州の農家に生まれ、16歳で海軍を志し、海軍航空隊の戦闘機パイロットとして支那事変、日米戦争を戦い抜き、敵の爆撃機や戦闘機大小70機近く撃墜し生還しています。

平常からも空中戦のために限界に耐えるように心身を鍛え、最も重要な視力では鍛錬の結果、昼間でも星が見えるようになったといいます。

酒井一飛曹は、1942年、戦死者が続出し搭乗員の墓場といわれた南洋ラバウル基地で戦友と激戦の日々を送りました。

ある日、ガダルカナル上空で敵の8機の鑑上爆撃機の編隊を戦闘機と誤認して追跡したため敵に撃たれ重症を負います。

意識が朦朧とした中、気がつくと飛行機は海面スレスレを背面飛行し、燃料が不足していた…
 
下を見ると日本海軍の巡洋艦2隻が見えたので、坂井氏は「着水すれば助けられるかも知れない」と思ったそうですが、その2隻が重大な任務を持ち数千人の人々が戦場に向かっていることを思いやめました。

そして、重症を負い激しい痛みに耐えながら1千キロ以4時間以上かけてラバウル基地へ帰ったのです。 


日本が戦禍へと巻き込まれ多くの人が亡くなられ、日本人が日本という国を守るため皆が命をかけた歴史を忘れてはなりません。
 
前途ある多くの若者が、国を守るため、家族を守るために、その尊い命をかけたのです…

下の画像は、世界が驚愕した「日本帝国海軍」の激戦を物語る画像。
 

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最後に、坂井三郎氏が若者にあてたメッセージを書いておきたいと思います。

坂井三郎氏は現代の若者に対して「大東亜戦争という日本の存亡の危機にあたり、若い前途有望な青年たちがみな命をかけて祖国を守ろうとした史実」を忘れないでほしいと述べています。


戦死された方々は皆健康で頭脳明晰な日本を背負う人々であったのです。

その方々の「日本を守る志を継承すること」が、再び危機の時代を迎えた現代日本人の使命ではないでしょうか?



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拙ブログの読者の方であれば「またか?」と思われるかも知れませんが、以前お伝えしたように南京大虐殺についてはシツコク書いていく予定ですので「またか…」と思われる方も、ぜひお付き合いください。

人は「一度読んだら分かった気になる」ものですが、読んだだけでは他人に説明することはできないでしょう。

理解というのは、他人に説明できてはじめて理解しているというのだと私は思います。

しかし、記憶のメカニズムとして「人は生死に関わるような重要な情報以外は瞬く間に忘れていく」ようにできいますから、人から教えてもらったりすると「覚えているつもり」になり、また同じことを聞くということがあります。

凄く馬鹿にされて悔しかったとか、大切な人を失ってとても辛かった悲しかったという情動が記憶と結びついていると深く記憶に刻まれて忘れにくくなります。

ですから、英語圏の外国人の恋人ができると途端に英語がうまくなる方がいるわけです。

以前、村上春樹氏が「南京事件」について書かれた小説が物議をかもしましたが、私は村上春樹氏の小説には興味がないので読んだことはありません…

しかし、世界的にも知名度の高い村上春樹氏の著書が出版されたことで、誤った歴史観が世界に飛び火しないことを願いました。

南京大虐殺は「通州での日本人の惨事と中国人を入れ替えた史実」ではないかと私は考えており、歴史的に見てもシナでは近代まで引き継がれてきた残虐な行為を日本人がしたとは到底考えられません。

また、通州事件のときは、どの新聞も一面で取り上げられていたのに対し、陥落当時の人口は「20万から25万」という当時の人口より多い30万人もの南京大虐­殺があったというのに、その記事は全く新聞に載らなかった ことも不自然です。

1938年、蒋介石が外国の記者と300回に及ぶ会見で一言も南京のことは言及していないことからも、もし30万人もの南京大虐­殺が事実であったなら、そのとき激しく抗議をしていなければおかしいのです。

南京大虐殺など起こっていなかったと考えれば辻褄が合いますし、それだけの事件であれば、当時、大変な騒ぎになっていたはずでしょう。

日本は、敗戦後、自虐史観を植えつけられ誤った歴史観を抱いている方がいますが、誤った歴史観から脱却しそういう虐殺・殺戮が得意な国は何処か?ということを知ってください。

東京裁判は、日本のためアジアの独立のために命をかけた人々を戦犯とし、戦勝国が見せしめのリンチをした。

その際に、証人として発言したマギー牧師は、サトン検事の質問に従って、南京市内で日本兵がおこなった一般市民に対する殺害や婦女暴行について事細かく証言していますが、200,000人に及ぶ中国人の安全地区にいた間に牧師は、100件以上の事件を生々しく伝えておきながら、自分で実際に見た事件はたった3件(殺人1、窃盗1、婦女暴行1)しかなく、後は被害者から聞いた話だと証言した。

そして、直接の被害にあったと言うものは1人も証人として現れなかった。

東京裁判では、直接の被害者ではなく被害者から聞いた話を伝えただけの人間が証人として立った。

この間に日本の新聞やラジオは、毎日のように南京事件のニュースを全国に流しましたが、証拠として価値のないものばかりでした。

また、ウェップ裁判長は、弁護側の証人に対しては邪魔をするように何度も口を挟み時間を制限し検察側の証人についてどんなものでも受け入れた。

南京大虐殺を始めとして東京裁判では、でたらめな証言をする証人が多かったのですが、その理由は、この裁判では嘘をついても偽証罪に問われることがなかったからです。

東京裁判は白人に楯突いた日本人を二度と歯向かわせないための復讐でありリンチであり、そのため南京大虐殺という捏造した歴史が利用されたのです。

私は、全ての人に歴史の真実を知ってほしいと願います。
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 鈴木史朗氏 【南京大虐殺は真実ではないと思う理由】

 〈もう一度南京へ〉
 TBSのバラエティ番組『からくりテレビ』の名物コーナーで、私が司会を務めていた「ご長寿早押しクイズ」。毎週数名のご長寿の方にご登場いただき、クイズに答えていただく人気コーナーでしたが、今から十一、二年前、南京戦に参加されていたという会津若松の方にお会いしたことがありました。

 撮影の合間に南京の話になり、私が「あそこは大変なことがあったから、もう南京には行けませんね」と声をかけると、その方が「いや、私は死ぬまでにもう一度南京へ行きたいんであります」とおっしゃった。私は驚いて、「どうしてですか」と聞いたところ、こんな話をして下さいました。

 「衛生兵として南京で日本兵を助けたが、怪我をした中国の敗残兵も助けた。軍のトラックで送ってやったら中国人の家族が非常に感謝して、家宝の掛け軸をくれたんです。さらに『戦争が終わったら、ぜひもう一度南京へ来てほしい。歓待したい。一日千秋(いちじつせんしゅう)の思いで待っている』とまで言われたんです。だから、私は死ぬまでにもう一度南京に行きたい」

 このことでハッと思い出したのは、私自身が幼いころ、南京戦直後に中国にわたり、天津で過ごした日々のことでした。それは、「大虐殺」があったなどとは到底考えられないほど、大変のどかな日々だったのです。

 この方にはその後、もう一度お会いする機会があったので、「南京大虐殺」の証拠写真とされている、松葉杖をついた片足の中国兵と、笑顔の日本兵が並んで移っている写真を持って行ったんです。キャプションには、「残虐な日本兵によって、逃げられないように片足を斬り落とされた中国兵」と書かれていました。

 ところが、この写真を見せたところ、南京戦に参加されたその方がとても喜んだんです。「この兵隊のことは良く覚えていますよ。アルマイトがなかったので、ヤカンをつぶして義足を作ってやったんです。いやー、よかった。この写真、いただいてもいいですか」

  他にも、実際に参戦された方々からさまざまなエピソードやをお話しいただきました。「たしかに、南京戦で相手の兵士を殺した。だが、それはあくまでも中国の兵士であって、日本兵も戦死しています」、「トーチカから撃ってくる兵士を仕留めて近づくと、機関銃手はまだあどけない顔の若者で、鎖でつながれていた。武士の情で彼らの墓を作ってやりました」。

 「南京戦後、中国人から『兵隊さんありがとう。あなたの靴を磨かせてください』と言われて、泥だらけだからと断ったのだが、どうしてもといわれたので磨いてもらった。気持ちが嬉しくて、飴玉をあげました」。

 そして、少しずつ勉強する時間が取れるようになり、勉強しはじめてみると、東中野修道氏や北村稔氏、また『WiLL』に連載されている西尾幹二氏ら「現代史研究会」の研究成果が自分の体験と重なって、歴史を学べば学ぶほど、また中国での日々を思い出せば思い出すほど、「大虐殺なんてあり得ない」という確信を得るにいたったのです。

 〈天津での日々〉

 私は、一九三八年(昭和十三)年二月十日に京都で生まれました。直後に、父が「大陸で一旗挙げたい」といって、それまで勤めていた有名な生命保険会社を辞めて単身、大陸へわたったのです。残された母は、私が一歳になるのを待って、一九三九年四月頃までには大陸へわたりました。南京戦が行われたのが一九三七年十二月のことですから、その一年半後には、もう私の母は女一人、子供を抱いて中国にわたっていたことになります。



 
そして、天津の日本人租界での暮らしが始まりました。元々フランス人租界だったところを日本人租界にしたそのあたりは非常にのどかで、その様子が伺える当時の写真も数枚残っています。引き揚げの時に持ち出しを禁止されたので、写真はかぎられたものしか残っていませんが、一枚目(上)は天津市淡路街という日本人租界の民団住宅前で撮影したものです。私と二人の妹と、近所の中国人の子が一緒に写っています。中国人の子の母親が非常に良くしてくれて、妹たちにおそろいの中国服を作ってくれました。

 もう一枚(下)は天津市須磨街の自宅付近で撮ったもの。近所の中国人の楊車(輪タク)夫が楊車に私たちを乗せて遊ばせてくれている光景です。背景も写っていますが、近所の中国人もよく日本人租界へやってきて、「日本人街の水道はきちんと整備されているから」などといって、水道の水などをもらって帰っていました。

 「天明公社」という貿易と軍需関係の合弁会社を設立した父の事業もうまくいっていて、わが家は結構裕福な暮らしをしていました。父が行き倒れになった中国人夫婦を助けて、自宅のガレージの一角に部屋を作って住まわせていたこともありました。その夫婦は恩義に感じてくれたのか、三人の子供にそれぞれ「小一」「小二」「小三」と日本風の名前を付けていて、私と同じ歳だった「小二」とはよく遊んだ思い出があります。

 当時の天津は本当に安全で、私は子供の足で歩いて二十分ほどの幼稚園まで、毎日一人で通っていたほどでした。道すがらの中国人が私に対して何かを言ってきたり、身の危険を感じるうようなこともありませんでした。虐殺などが本当に起こっていたとすれば、日本人に対して何らかの罵声が浴びせられたり、少なくとも親から「一人で出歩いては危ない」などと言われたはずですが、そのようなことはありませんでした。

 それどころか、中国人に助けてもらったこともあります。家の近くを運河が流れていたのですが、土手でかけっこをして遊んでいて、川に落ちてしまった。溺れていたところを中国人の船頭さんが助けてくれて、自宅まで連れて帰ってくれたのです。川の水を飲んで赤痢(せきり)にはなってしまいましたが。

 たまに町で日本兵を見かけることもありましたが、中国人の友達も「カッコイイね。僕も将来はあんな兵隊さんになりたい」ということを言っていたくらいで、規律正しい日本兵の姿には、中国人も日本人も、ある種の敬意と畏(おそ)れを持っていたようです。天津には七年間住んでおり、子供ながらにシンガポール陥落など戦況についてよく話していましたが、「南京大虐殺」については一度も聞いたことがありませんでした。

 〈中国人女性にモテた父〉  

  父の会社の本社や事務所があった北京にも時々行きました。王府井(ワンフーチン)界隈の大通りに面したところに事務所がありましたが、当時の北京は賑やかで華やかで、やはり穏やかでした。太ももまでスリットの入ったチャイナ服の中国人の女性が自転車で走り去るのを見て、子供心に「すごいお姉さんだなあ」と思っていた記憶があります。

 父は、とにかく北京では中国人女性にモテてモテて、母はとても苦労していたようです。父は俳優の上原謙のような男前でしたし、明治の男ですから仕方がないとはいえ、恋愛結婚で一緒になって、大陸まで父を追いかけた母にとってはたまらなかったでしょう。

 ただ、もし本当に南京で日本人が民間人の大虐殺を行い、女性を強姦していたとしたら、中国人女性が日本人男性である父にそれほどまでにほれ込んだりはしなかったでしょうし、中国人同士の間でも「日本人なんかに熱を上げて」と非難されたはずです。しかし、そのようなことは全くなかったばかりか、父は中国人のためにも一所懸命働きましたので、老若男女問わず、中国人からは非常に尊敬されていたのです。

 〈南京ののどかな光景〉

 胡同(フートン)にある本社の隣には、北京の警察署がありました。父と署長は仲が良く、どこかへ一緒に列車で出かけたこともありました。署長さんはお金持ちだったからか、一号さんと二号さんを隣りに乗せていて、どちらもとても素敵な女性でしたが、口紅ばかり塗っていて子供の私には目もくれず、冷たくあしらっていました。「可愛がってくれないんだなあ」と思ったのを覚えています。

 しかし、そう感じたということは、逆に言えばそれ以外の中国人の大人たちは、日本人である子供の私を非常に可愛がってくれていたということでしょう。 三、四歳の頃には南京へも行っているんです。まだ記憶はおぼつかない頃ですが、親父に後から聞いた話は覚えています。

 「お前を南京に連れて行った時、泣かずに頑張った。南京のある中国人が、そんなお前の態度を見てとても気に入ってほめてくれたんだ。しかも、『耳の形がいい。こういう人物と付き合うと、自分の運気も上がるから、是非抱かせてくれ』といって抱き上げてくれたんだよ」

 また、父は南京で聞いた話をもとに、よくこんなことを言っていました。「聞いたところによると、日本の兵隊さんが食糧を分けてくれたので、南京の人々は助かったんだそうだ。お前もいい兵隊さんになるためには、強いだけではダメで、思いやりをもたなければいけないよ」

 この話は非常に印象的だったのですが、後のこの話に通じる事実があったことを知りました。あのジョン・ラーベも日本軍宛に「私どもは貴下の砲兵隊が安全地区を攻撃されなかったという美挙に対して、また同地区における中国民間人の援護に対する将来の計画につき、貴下と連絡をとり得るようになりましたことに対して感謝の意を表するものであります」との書簡を送っており、報告書でも、日本軍からの米と小麦の配給があったことに触れています。

 もし本当に大虐殺が起こっていたとしたら、いくら書簡の挨拶文とはいっても「感謝」など示すはずがありません。


 〈命からがら引き揚げ〉

 歴史的根拠に関して言えば、二〇〇七年十二月に出版された『WiLL』増刊号「『南京大虐殺』に終止符!」で、映画『南京』が紹介されています。私もこの映画を見ましたが、あの映画ののどかな光景は、まさに私が天津で暮らしていた頃の記憶と重なるのです。とてもじゃないが、「虐殺があった」とは思えない光景が記録されています。

 増刊号でチャンネル桜の水島総氏も指摘されているとおり、この映画にはワイドショットが多用されているのですが、報道記者としての経験から言っても、ワイドショットでは不都合なものがあった場合、それが映りこんでしまうので、ドキュメンタリーを撮る場合には普通、あのような撮影はしません。「不都合なものなどない」から、安心してワイドショットで撮影していたのだと分かります。

 優しく、子供好きの日本兵、そして日本人と中国人が楽しそうに交流している様子。もし本当に虐殺があったなら、中国の人々も日本兵も、あのような自然な笑顔で交流することなどできなかったはずです。

 終戦を迎えると、さすがに中国人は現実的ですから、コロリと態度が変わりました。わが家に住んでいた中国人家族も、「引き揚げるなら財産を全て置いて行け」などと言いだしたほどです。こちらはせめてと思い、財産と引きかえに「持って帰ってはいけないといわれているので、写真を後から日本へ送ってほしい」と撮りためた写真を託したのですが結局、届きませんでした。送ってくれなかったのか、それとも没収されてしまったのかは分かりません。

 それどころか、父は貿易と軍需の会社をやっていた関係でスパイ容疑をかけられて逮捕、拘束されてしまいました。一番下の妹は三カ月くらいで出発前に死んでしまいましたし、父が死刑になるかどうかも分からない状況のなか、私と母はとにかく引き揚げなければということで、私は両手に妹を連れて、母は父の荷物まで一緒に背負って塘沽(タンクー)の町まで二週間かけて歩きました。銃撃を受けながら、ろくなものも食べられない状況での過酷な「行軍」だったのです。

 幸いなことに、父は共同経営者だった中国人が「鈴木(リンムー)先生は日中のためによくやってくれた。鈴木先生をこのまま殺したら、子々孫々から恨まれる」と一所懸命動いてくれたので刑を免れ、港で合流することができ、何とか一家で日本へ引き揚げてきたのです。

 〈テレビ局の「自主規制」〉

 命からがら日本へ帰った私は、その後大学へ進学し、TBSに入社しました。仕事が忙しく、その後中国を訪れることもなく、日々の生活に追われて天津での日々を振り返る暇もなかったほどでした。社会部で仕事をしているなかで、ふと気がついて周りを見渡したときには、「虐殺はなかったんじゃないか」ということすら言えない雰囲気が出来上がっていました。それがテレビ局の「自主規制」なのか、自虐史観を刷り込まれているからなのか、はたまた中国の謀略にかかってしまったからなのかは分かりません。

 局にいる間はこのことで揉めたこともありましたが、TBSを卒業してからは「もう何を言ってもいいだろう」ということで、講演などでも自分の経験からのお話をさせていただいてきました。それでも、雑誌やテレビが「私が経験から南京大虐殺などなかったと思う理由」について取り上げてくれたことは一度もありませんでした。

 以前、日本テレビ系列の『オジサンズ11』(〇七年十月~〇八年九月まで放映)という番組に出演していた時に、制作プロダクションから「何か番組で取り上げるテーマはありませんか」と聞かれたので、映画『南京』を取り上げてはどうか、と提案したことがありました。

 この映画は他の局で放映されたことはないし、これまでの「南京」のイメージが覆(くつがえ)る。南京の真実が伝わるだろうと思ったのです。プロダクションのスタッフが話に乗ってくれて、私は本当に嬉しかったんです。「これで真実が全国に広がるきっかけになる」と思っていたのですが、会議で上の人間から何か言われたのでしょう、有無を言わさず却下されてしまいました。その後はスタッフが私を見る目が変わり、目が合っても顔を背けるようになってしまった。非常に悲しかったですね。

 報道に携(たずさ)わる以上、「真実」に近づき、「真実」を伝えることが使命だと分かっているはずです。にもかかわらず、「検証」すらせず、中国のプロパガンダ、「嘘」に加担し続けるというのは、報道人としての風上にも置けません。すでに中国の手が回っているのかもしれませんが、「真実」を伝えることが報道に携わるものとしての、いや人間としての務めではないでしょうか。

 〈日中の未来のために〉

 「南京大虐殺」のような「嘘」があるかぎり、日中が手に手を取ってやってくことはできません。日本と中国は永遠に隣同士ですから、その関係を悪化させる中国の反日プロパガンダ、反日教育はたださなければなりませんし、このような状況は日本にとっても中国にとっても、「最大の悲劇」としかいいようがありません。

 私にとって、中国は「第二の故郷」なのです。その中国の方々が、このような「嘘」を永久に教え込まれ続けるとすれば、本当に悲しいことです。映画『南京』の冒頭には、このような字幕が流れます。「我々の同胞が一つになって闘った数々の光輝ある歴史の中でも南京入場は燦然(さんぜん)たる一頁として世界の歴史に残るだらう。その日の記録としてこの映画を我々の子孫に贈る」。

 我々は、どんなに時間をかけても「南京大虐殺は真実ではない」と伝えていかなければならない。それが「我々の子孫」……つまり日本人の未来のためであり、中国人のためでもあるのです。 

 筆者 鈴木史朗

当時を知る方たちは、もうほとんどいない…しかし、事実が捻じ曲げられ真実が歴史の中に埋もれていくことは避けなくてはいけません。

日本は、歴史を捏造する中国・韓国のみならず、この国の左翼や朝日新聞などによって現在に及ぶまで事実に基づかない「中傷」と「不利益」を被っているのですから。


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