心の風景

カテゴリ: 老子

今日は、また老子のご紹介(私の趣味)をしたいと思います。
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天下皆美の美たるを知る、斯れ悪のみ。

皆善の善たるを知る、斯れ不善のみ。

有無相生じ、難易相成し、長短相形し、高下相傾け、音声相和し、前後相随う。

是を以て聖人無為の事に処り、不言の教を行なう。

万物作りて辞せず、生じて有せず、為して恃まず、功成りて居らず。

夫れ唯居らず。

是を以て去らず。

(解釈)

天下の人たちは皆、美が何であるか知っているが、それだけではいけない。

美の裏には醜があるのだ。

皆は善がどういうものか知っているが、それだけではいけない。

裏には不善があるのだ。

このように有無はともにあり、長短、高下、音声、前後といった具合に、すべてに相対的なものがある。

だから道の教えを体得した聖人は、事を為すに当たって何もせず、何も言わない。

道は万物を生むが、それを誇りに言わず、それが育ってもそれを自分のものとしない。

それを頼りにすることもなく、成功すれば、いつまでもその場にいない。

「養身第二」は、ものごとの価値というのは「相対的」であると説かれています。

美しいものを美しいと認めるとき、 そこに醜さの認知が生じる。

善なるものを善だと認めるとき、 そこには悪の認知が生じる。

この世は相対のモノが存在し、それゆえに「自らを知る」ことができます。

心理学でも少し書いているかと思いますが、人は「比較」することで自分の位置を確認しています。

ですから、あり方と心根は、とても大切だと思っています。

絶対こう思わなければいけないというルールはありません。

しかし、自分を誤魔化して満たされるということはないでしょう。

大事なことは人にどう見られるかではなく自分を「自分がどう見ているか」です。

人にはそれぞれ感覚や感性があり、青もスカイブルー・コバルトブルー・インディゴブルーなどの表現があるように思い浮かべる色も異るでしょう。

色が人によって異なるイメージを持つように、感じ方受け止め方も違います。

だからこそ、自分は何が好きか? 何が嫌いか? 
何をやりたいか? 何をやりたくないか? は大事ではないでしょうか?

皆んなやってる、皆んなが言ってる。

皆がやっていたら、自分もやるのか?
皆がやらなかったら、自分はやらないのか?

良い、悪い、やる、やらないというのは、自分で判断するものですよね…

友達が良くないことしていると思ったら「止めろ!」というのが友達です。 

自分の思っていることを相手に伝えること声をあげていくというのは大事なことです。

いかにして生きていくか?人や社会と関わっていくのか?

どうやって人生を歩いていくかは、とても大切なことではないでしょうか?


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拙ブログを「お気に入り」登録してくださっている読者の皆さまは、URLが http://kokorone.blog.jp だとご存知でしょう。

ランキングに登録したのは「拉致問題」「中共による人権問題」を広く知っていただきたいためであり、40年もの歳月を待ち続ける拉致被害者とそのご家族には、もやは一刻も猶予がないことからツイッターも利用していますが、拙ブログの根幹は「心根」と「在り方」です。

私自身も未熟ですから、人様に「心根」と「在り方」を語れるほど成熟した精神をもっているわけではありませんが、ときおり「運」について書いているのも「運」は引寄せようとして引寄せられるものではなく、その人の「心根」と「在り方」が影響していると考えています。

茶道に由来する「一期一会」という言葉がありますが、これは、安土桃山時代、千利休が説いた茶の湯の心得にあるといわれており、利休が生きた時代は乱世でしたから今日会う人と再び会うことがないという背景があったと思われます。

全ての人に「死」が平等に訪れるように、その事実は利休の時代も今も変わることはなく、この世で「出会う」人というのは、親兄弟、恋人や夫婦、友人、仲間、誰であれ、必ず「別れ」を迎えます。

そして、その日がいつなのかは誰も知ることはなく、また、明日という日が必ず来るとは誰も保証されておらず、今より先、全てを一瞬に失うことも起こり得るのです。

だからこそ、在り方や、その時々に起きている事象をどのように受け止め、いかにして乗り越えていくか行動に移していくかというのは大事ではないでしょうか?

茶道の「一期一会」というのは「もてなす心」です。

今という二度とは来ない「時」を共に過ごす相手に、今自分にできるもてなしをする。

そこには、今を大切に生きる人の心があると思います。

それは「もう二度と会えないから」よくしてあげるということではないと思います。

ツイッターをしていると色んな方が観えてきます。

ネット時代は情報が間単に手に入りブログなどで発信している人の内容を、あたかも自分が発信しているかのようなツィートが「愛国保守」と名乗っているのを観ると呆れてしまいます。

140文字で情報ソースまで書けないことはありますが、自身を省みることはとても大切なことではないかと思います。

「人に見られていなければいい」「ばれなきゃいい」と思う方は、蒔いた種を刈り取るときに分かるでしょう…

視得ない世界は見える世界と繋がっていないわけではないと思います。

最後に「老子第七十三章 天網恢恢、疏にして失せず」のご紹介をしておきたいと思います。


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敢えてするに勇なれば則(すなわ)ち殺され、敢えてせざるに勇なれば則ち活かさる。

この両者、或(ある)いは利あり、或いは害あり。

天の悪(にくむ)む所、孰(たれ)かその故を知らん。

天の道は、争わずして善く勝ち、言わずして善く応じ、召さずして自ら来たし、繟然(せんぜん)として善く謀る。

天網(てんもう)恢恢(かいかい)、疏(そ)にして失せず。

(解釈)

(悪人がいた場合)あえて勇気を持ってこれを殺すか、勇気を持ってこれを殺さずに置くか、この二つは、一つは利になり、一つは害になる。

天が憎むのはどちらってこれを殺すか、天が憎むのはどちらか分からない。
誰も天意がどこにあるのか分からないのだ。

聖人にとっても、この判断は難しい。

「天の道」は争わずして勝ち、言わずして万物の要求によく応じ、招くことなくやって来させ、ゆっくりとしながらも、うまく計画する。

天の網は広大で網目は荒いが、決して漏らす事は無い。

河出書房新社「中国故事物語」では、以下のように訳されています。

物事を、断乎としてやることに勇気があって人を平気で殺し、断乎としてやらない方に勇気があって人を生かす。

生かすのと殺すのと二つの内、一つは利があり、一つは害がある。

だが、天が憎むのは必ず殺の方だ。とすれば、物事を、断乎としてやることに勇気があって人を殺す者は、天の意思にそくことになるわけだから、当然、天の罰を受けていいはずだが、世間のことは必ずしもそうは行かない。

反対に、人を生かした者、必ずしも天の賞を受けるわけではない。大勢の人を殺して、天罰を受けない者もある。

だから人々は、この活殺二つの利と、天の憎むところが一体どちらにあるかがわからなくて迷うし、聖人でさえも、この点がハッキリしなくて困っている。

だが、長い目で見れば、この二つの利害と、天の憎む所が一体どちらにあるかは、自から明らかである。

天の道は争わずして勝ち、言わずしてよく応じ、招かずして自から来、緩やかであってよく謀る所にある。

だから悪運の強いときは、なるほど一時は天にそむいても、罰を受けないこともある。

しかし、結局は天の罰を受けることは必至だ。

天の網は恢々として広大であり、その網の目は疏だけれども、善悪の応報は必ず下し、決して失敗することはない。  


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近畿地方にお住まいの方は大丈夫でしたか?

今朝、通勤途中の停車駅で誰かの携帯(スマホ)から緊急地震速報が鳴り響き、しばらくすると大きく車内が揺れました。

昨日も群馬で震度5弱の地震があったばかりです。

皆さまも、くれぐれも日ごろから何かあったときの備え(最低3日分の飲食、できれば1週間分といわれています)をしてください。

また、自然災害は家族が一緒にいるときばかりではありません。

何かあったときに「ここで会おう」と普段から決めておかれること、避難経路なども家族で話をしておくことをお勧めします。

哲学思想カテゴリでは、神は愛だとか自然は調和だというブログを見かけることが少なくありません。

しかし、今日のように自然災害は突然おきるものです。

老子は、それを国虚用第五のように説きました。



天地は仁ならず、万物をもって芻狗(すうく)となす。

聖人は仁ならず、百姓(ひゃくせい)をもって芻狗となす。

天と地の間は、其(そ)れ猶(な)お槖籥(たくやく)のごときか。

虚(むな)しくして屈(つ)きず、動きていよいよ出ず。

多言はしばしば窮(きゅう)す。中(ちゅう)を守るに如(し)かず。
 

(解釈)
 

天地には仁慈というものはない。

万物を祭壇に供える飾り犬と同じに見ている。

祭礼が済めば捨てられるのを黙って見みているだけだ。

聖人にも仁慈はない。

民が飾り犬のように死ぬのを見ているだけだ。

天地の間は鍛冶屋のふいごのようなものだ。

中は空なのに動くと際限なく風を噴き出す。



老子は、中華人民共和河南省の生まれと書かれていますが、特定の誰かではなく複数の人が書いたものをまとめたもので老子という人は実在しなかったようです。

国虚用第五では、自然に仁愛の心はないと述べています。

自然は万物を使い捨てにし、自然の働きは空気を送り出す鞴のように空っぽの中から尽きることなく物の供給は途絶えることがない。


動けば動くほど物は生み出され万言が費やされ知は涸れて、なお世界の芯(中、核心)は不滅だと説いています。

自然界は、食物連鎖、自然淘汰、弱肉強食。

そうやって「調和」を保ち、そして、また新たな命を育んでいきます。

それが、自然の在り方であって、人間が期待しているような「優しさ」や「愛情」はない…

現実と向き合えば、「自然は愛」だ「調和」だとは決して思わないでしょう。

私たちは、自然の驚異や在り方を無視して生きてくことはできません。

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何かあってからでは遅いので、大切なご家族や仲間と、日ごろから災害に備えた訓練や備蓄をなさってください。


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天下に水より柔弱(じゅうじゃく)なるは莫(な)し。

而(しか)も堅強(けんきょう)を攻むる者、これに能(よ)く勝る莫し。

その以(も)ってこれを易(か)うるもの無きを以ってなり。

弱の強に勝ち、柔の剛に勝つは、天下知らざる莫きも、能く行なう莫し。

ここを以って聖人は云(い)う、国の垢を受く、これを社稷(しゃしょく)の主と謂(い)い、国の不祥(ふしょう)を受く、これを天下の王と謂うと。

正言(せいげん)は反(はん)するが若(ごと)し。


(解釈)

この世に水よりも柔らかく弱々しいものは無いが、それでいて固く強いものを打ち破ることにおいて水に勝るものも無い。

その性質を変えることのできるものが存在しないからである。

弱いものが強いものに勝ち、柔よく剛を制すとは世によく知られたことだが、それを行うとなると難しい。

そこで「道」を知った聖人は言うのだ、「国家の屈辱を甘んじてその身に受ける者、その人が国家の主であり。

国家の災いを甘んじてその身に受ける者、その人が天下の王である」と。

本当に正しい言葉は普通とは逆の様に聞こえるものだ。 


任信第七十八では、水は、この世で最も弱い物質であると同時に、強い物質でもあると説いています。

それゆえに、強い者は、水と同じように弱い立場で「汚いものを引き受けられる人」であるということです。

綺麗事を並べるだけなら誰でもできます。

パフォーマンスだけがお得意な恥知らずの野党は、もやはお笑い芸人を超えている。

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野党に限らず、私の好きな哲学思想のブログでもそういう方がいる。

そして、大きなことだけいう。

まあ、騙るだけなら誰でもできる話ですからね。

「地球を守る!」などと書いてあると戦隊物の見すぎか?と疑いますが、スケールの大きいことだけいって、何もできないのだろうと思います。

平和や愛を騙るこの手の方は、
SEALDsと同じに観えてしまう。

かつてSEALDsは「敵国が攻めてくるというのなら、とことん話して酒飲んで遊んで食い止めます」という迷言を吐いた。

その寝言を聞いて「やってみろよ」と思ったのは、おそらく私だけではなかったでしょう。

中心メンバーである奥田が、自分や家族に向けた殺害予告を受けて震え上がり、それまで散々毒づいていた警察に慌てて駆け込んだことは、よく知られています。

派手なパフォーマンスや綺麗事。

人から賞賛を浴びるために良いカッコをする。

そのくせ、非難され、屈辱を受けることは嫌い、立場が危うくなると真っ先に逃げ出す。 

汚いものは引き受けたくないという口先だけの連中です。

老子の説いた「汚いものを引き受けられる人」が、政治家を含め日本にどれほどいるでしょう?

それほど多くないでしょうけれど、私は、昭和天皇(先帝陛下)は、紛れもなく「汚いものを引き受けられる人」であったと思います。
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陛下は、たった一人通訳だけを連れてマッカーサーの前に立たれたのですが、マッカーサーは、陛下が命乞いに来たと勘違いし、パイプをくわえたままソファーから立とうともしなかった。

しかし、陛下は直立不動のまま国際儀礼としての挨拶を終え、こう言われました。

『日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切の責任はこの私にあります。私の命においてすべてが行なわれました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処されても、いつでも応ずるだけの覚悟はあります。しかしながら、罪なき八〇〇〇万の国民が、住むに家なく、着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えんものがあります。温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますように』と。

敗戦国のトップなどは、
命乞い・亡命が当たり前の時代。

だからこそ、陛下のこの言葉は、マッカーサーを驚かせ「天皇とはこのようなものでありましたか!私も、日本人に生まれたかったです。陛下、ご不自由でございましょう。私に出来ますることがあれば、何なりとお申しつけ下さい」といわせた。

しかし、陛下は「命をかけて、閣下のお袖にすがっておりまする。この私に何の望みがありましょうか。重ねて国民の衣食住の点のみにご高配を賜りますように」と、ご自身のことは何一つ願われなかった。

その後、マッカーサーは以下のように語っています。

「天皇の話はこうだった。『私は、戦争を遂行するにあたって日本国民が政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対して、責任を負うべき唯一人の者です。あなたが代表する連合国の裁定に、私自身を委ねるためにここに来ました』大きな感動が私をゆさぶった。

死をともなう責任、それも私の知る限り、明らかに天皇に帰すべきでない責任を、進んで引き受けようとする態度に私は激しい感動をおぼえた。私は、すぐ前にいる天皇が、一人の人間としても日本で最高の紳士であると思った」
(マッカーサー回顧録一九六三年)


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寵辱(ちょうじょく)には驚くが若(ごと)し。

大患(たいかん)を貴(たっと)ぶこと身の若くなればなり。

何をか寵辱には驚くが若しと謂(い)う。

寵を上と為(な)し、辱を下と為し、これを得るに驚くが若く、これを失うに驚くが若し。

これを寵辱には驚くが若しと謂う。

何をか大患を貴ぶこと身の若しと謂う。

われに大患有る所以(ゆえん)の者は、われに身有るが為なり。

われに身無きに及びては、われに何の患(わずら)い有らん。

故(ゆえ)に身を以(も)って天下を為(おさ)むるより貴べば、若(すなわ)ち天下を托(たく)すべく、身を以って天下を為むるより愛すれば、若ち天下を寄(よ)すべし。

(解釈)

名誉とか財産とかの大きな心配事を大切のものとして、我が身と同じように考えているというのは、どういうことか。

我々が大きな心配事を持つことになるのは、我々に身体があってこそのことだ。

我々に身体が無いということであれば、我々に何の心配事が起ころうか。
(してみると、身体こそが根本だと分かるだろう) 

だから、天下を治めるといったことよりも、我が身のことを大切にするという人にこそ、天下を任せることが出来るし、天下を治めるといったことよりも、我が身のことをいたわるという人こそ、天下を預けることが出来るのだ。

猒恥第十三では、心と身体が一致して人に尽くせる者、身体と天下を一体と考えて、わが身のように天下を慈しむ者に、天下を任せられると老子は説いています。

正義感から「義憤」にかられる方というのは、他人にも同じものを要求し、拙ブログで心理について書いていることですが、イジメなども根っこが同じだといえます。

俺はやったぞ、お前もやれよ!です。

逆に、それが良いことであったとしても「押し付け」であれば同じです。

正義とは、個人の中にあるものですから、私も思うことを綴ってはいますが、どうするかは、皆様が、それぞれ答えを出されたら良いと考えています。

ただし、「平和ボケ」した脳内お花畑な連中には、早く夢から覚めてほしいものだと思います。

テロや紛争でさえ「聖戦」と謳い「正義」を振りかざして殺戮する現実があることを知ってほしい。

人類の歴史を見ても、常に仕掛ける側という存在があり、略奪、虐待、強姦、虐殺が繰り返されてきた。

例えば「宗教」は、時の権力者によって統制に利用され、キリスト教などは、神と子と聖霊は「三位一体」という概念を確立して絶対性を強化しました。

そして、教会は、ローマ帝国組織と組み、階級と貧富の差をも認め、イエスが説いた原始キリスト教と異なる宗教団体となっていきます。

ローマ皇帝は、首都に聖堂を作り「君主を神格化」し、聖地エルサレムをイスラム教徒の支配から奪還し「権力を高めるための十字軍を組織」した。

十字軍の遠征は、約200年続き、異教徒弾圧は8回に渡り繰り返され、イスラム兵士だけでなく、老若男女無差別に殺戮した。

十字軍は「金で雇われた傭兵の集まり」であり、「罪の償いを免ずる」とローマ皇帝から保証され、免罪符を手に入れた十字軍の進行は、略奪、虐待、強姦、虐殺の限りを尽くした。

こうした悪逆非道な行為は、シナ、旧ソ連、朝鮮と同じです。

今も戦争はなくなりませんが、歴史から学ぶことは非常に多いと思います。

日本は、かつて、自衛のために戦わざるを得なくなり、自らをも「犠牲」にする悲劇的な争いへと突き進んでいきました。

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多くの若者が、国のため愛する者を守るために命をかけました。

自らが死を覚悟し戦地に向かわねばねらなかったのは、国家を守る、その背景に「家族を守りたい」という思いがあったことでしょう。

国がなくなれば、国の将来も、その国に暮らす人々の未来もないのですから。

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話を老子に戻しますが、猒恥第十三では、世俗的な価値のために我が身を犠牲にするようなことは愚行だと戒めています。

私も、老子と同じです。

人がいった。

偉い人がいった。

みんながいっている。

あの人がやった。

あの人もやっている。

みんながやっている。

その基準は「あなたの基準」ではありません。

だから、あなたに考えてほしいのです。

戦争を起こさせないようにするには、ただ「平和」を謳っていたのでは成り立ちません。

戦禍へ巻き込まれていかないための自衛・国防は「急務」です。

自国の利益のため他国の人々を攻撃、弾圧し、民族から言葉を奪い、人間らしい暮らしを奪い、非人道的行為になんら抵抗のない国が、日本に照準を定めています。

内モンゴル・チベット・東トルキスタン(ウイグル)の惨事を、日本人は、もっと身近に感じるべきだと思います。


日本政府は、国民の生命・財産・自由を守る責務があります。

だからこそ、安倍政権に難癖をつけ貶めている連中に、国を任せる訳にはいかないのです。

私たちは、自衛・国防について検討を重ねていく必要があることを、国民の声をあげていかなくてはなりません。

尖閣や沖縄、北海道を狙う隣国の脅威は身近に迫っているのですから。




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