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今回は、「しばやんの日々」ブログ「関東軍が満州を制圧し満州国が建国されたことを当時の世界はどう見ていたのか」をご紹介します。


関東軍が満州を制圧し満州国が建国されたことを当時の世界はどう見ていたのか

昭和6年(1931)9月18日の柳条湖事件に端を発して満州事変が勃発し、関東軍により満州全土が占領されて、その後満州は関東軍の主導の下に中華民国からの独立を宣言し、昭和7年(1932)3月1日に満州国が建国された。満州国の元首(満洲国執政、後に満洲国皇帝)には清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)が就いた。

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溥儀

この満州国については、一般的な教科書では次のように記されている。

「しかし、軍事・外交はもとより、内政の実権も関東軍や日本時官吏がにぎっており、満州国は日本が事実上支配するものとなった。日本のこうした行動は、不戦条約*および9か国条約に違反するものとして国際的な非難をあびた。」(『もういちど読む 山川の日本史』p.297)
*不戦条約:1928年、仏のブリアンと米のケロッグが提唱して実現した戦争を否定する初の国際条約。ケロッグ・ブリアン条約とも言う。

このような文章を読むと、わが国が全世界から非難されたような印象を受けるのだが、満州事変のあと国連から派遣された調査団によってレポートされた『リットン報告書』では相当程度わが国の立場を認めていた。

また満州国は当時の世界60か国の内20か国がのちに承認し、ソ連のような建国以来国境紛争を繰り返した国さえも事実上承認の関係にあったのである。
世界の3分の1が承認しているような満州国を支援したわが国が「国際的な非難を浴びた」とわが国の教科書が書くのは、国民を「自虐史観」に誘導し固定化する意図を感じるところなのだが、この点について当時の論調はどのようなものであったのか。


まずわが国が「不戦条約」に違反したかどうかだが、そもそも1928年に成立した「不戦条約」は単純に戦争を放棄するというものではなく、自衛のための武力行使は認められていたことは重要なポイントである。
前回の記事で書いたように、日清戦争の頃は満州人の故地である満州の人口はわずか数百万人であったのだが、そこに中国は3千万の漢人を送り込んで排日運動を仕掛け、ソ連も赤化工作を仕掛けて何度も暴動を起こし、わが国が多額の投資をしてインフラを整備し築き上げてきた満州の権益を奪う動きをしていたのである。わが国の行動が自国の権益を守るための自衛行為だと認知されていたなら条約違反にはあたらないことになる


国立国会図書館デジタルコレクションに、満州事変の1か月後に出版された『満洲事変と世界の声』という本が公開されている。この書物は主要国の新聞や雑誌の当時の論調をまとめたものだが、わが国が「不戦条約」に違反したかどうかについては、アメリカのファーイースタン・レビュー誌のG.ブロンソン.リーの論文(要約)がわかりやすい。この人物はその後満州国外交部顧問に就任していることを付記しておく。

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【G.ブロンソン.リー】

「日本は満州に15億円の投資を為しているばかりではなく、その経済的必要、国防の安全、国家の名誉と威厳をかけている。…
 この満州における日本の既得権益問題が解決されなければ、日支通商も日支親善もあり得ない。中村大尉事件、万宝山事件、朝鮮における支那人虐殺事件その他三百余件が日支間に未解決のまま残されている。支那*はその解決策として、国際連盟**、ケロッグ不戦条約その他世界の同情を利用して日本の武力を封じ、一方ボイコットを以て日本を経済的に圧迫しようとしている。日本がこと満州の既得権に関する限り絶対に第三国の干渉を排除し、必要とあれば全世界をも相手取って争うことを辞せないことを誓っていることを支那は忘れているのである。しかのみならず、支那はケロッグ・ブリアン不戦条約について重大な見落としをしている。すなわちこの不戦条約には自己防御および既得権擁護の権利の場合が保留されていることを見落としているのである。…満州における支那の宗主権は日本といえども認めている。しからば支那はその宗主権を如何に行使したか。国際の信義を重んじたか、満州の福利を計ったか、治安を維持したか、また外国資本からなる企業を保護したか?…
 満州の支那官憲は七十億ドルもの無価値な紙幣を発行して農民から穀物をとり上げ、それを現金に代えて巨大な軍隊を養い、将軍連の私腹を肥やしていた。支那は盛んに国際的道徳を説くが、日本が事実をもって説くところも聴く者をして肯かせるものがある。支那は日本の侵略を説き不戦条約違反だとするが、日本からしてみれば自己防御と言うだろう。元来国際公法なるものは国際の伝統、習慣および力から成るのであって口先ばかりの理屈ではない。支那は自己の外交を支持する力を以てせず、ボイコット、ストライキその他の排外運動なるものを武器として戦う。支那は常に国内の戦争ばかりしていて、ろくに自分の国を治めないで外国の干渉は排撃するが、外国と事が起こると第三国の干渉を希望している。今日の紛争の種は支那が撒いたようなものだ。即ち国内を治めず、国家の権力に伴って存する義務を怠っていた結果である。」
*支那:現在の中国本土。
**国際連盟:1920年1月20日に正式に発足した国際機関。本部はジュネーブにあった。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1146591/94

また同上書で、英国のタイムズ紙(同年10月16日付)に掲載されたT.O.Pブランド氏の論考も紹介されている。文中のジュネーブというのは国際連盟のことを指している。

支那国民党は、南京および奉天において日本に対する敵対的政策を遂行していたもので、それは激烈なる反日宣伝やあらゆる種類の破壊的行動によって示されていた。これは支那外交の伝統的手段に全く一致するもので、この煽動政策は日本をして合法的権益を自衛せしむる上に、武力に訴える立場まで引きずりこむこむことで、日本がこの軍事行動をとるや支那はこれをもってケロッグ条約や連盟に抵触するとなしてこれを訴え、連盟および米国の干渉を誘起せんとするものである。
 この支那の取っている政策の真の目的は満州における日本の権益を廃棄せしむるか、またはその根本的改定にあるもので、国民党の首領らはワシントンおよびジュネーブの雰囲気がこの目的遂行に十分合致せるものなることを知りつくしている。支那はワシントン会議以来他の条約国との交渉に於いて条約の義務を平気で無視し、または破棄することに成功している。今回支那がことさらに事件を起こして日本の満州における権益を排除すべき見解をとって、ジュネーブに訴え出たことは敢えて驚くに当たらぬ事実である

 しかしながらすべてこの理論的政策をまず差しおいて、日本が合法的権利の範囲内で活動した結果、満州が無秩序な支那の砂漠の嵐の中に反映せるオアシスとなっている状態は貴重な事実であらねばならぬ。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1146591/22

このように中国に対して厳しくてわが国に理解を示す論調もあれば、その逆もまた存在するのだが、ソ連や中国のように侵略行為としてわが国を厳しく非難する論調は決して多くなく、軍部が政府の指示を得ずに動いた問題点は指摘しつつも、わが国の自衛のための行動と評する論調をいくつも見出すことが出来る。

再び冒頭の教科書の記述に戻って、次にわが国が「9か国条約」に違反していたかについて考えてみたい。

この条約は大正11年(1922)のワシントン会議に出席したアメリカ、イギリス、オランダ、イタリア、フランス、ベルギー、ポルトガル、日本、中華民国間で締結された中国に関する条約で、各国に中国の主権、独立そして領土及び行政的保全を尊重させ、門戸開放・機会均等・主権尊重などが定められているのだが、中国側にも軍事力と軍事費の削減努力を行う義務などが定められており、中国に関して言えば、彼らはこの決議を全く無視して兵力を増やし続けたことを指摘せざるを得ない。


日本外交文書デジタルアーカイブ ワシントン会議極東問題の決議内容が公開されていて、次のURLの第9章第1節にのp.348に、(7)支那陸軍兵力縮小に関する決議の訳文が出ている。
https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/tt-4.html


G.ブロンソン.リーの著書『満州国建国の正当性を弁護する』によると、1921年当時の中国軍は約百万人と見積もられていて、その後大幅に増加したという。

「『チャイナ・イヤー・ブック』(1932年)は、非正規軍を除外してその戦力を2,245,536人と見積もっている。南京政府の軍事独裁者、蒋介石の私兵は百万である。これに加えて承認政府の軍隊と独立した軍閥があり、武装した匪賊、そして共産軍がおよそ二百万である。銃器を携行する中国人は合計するとざっと五百万で、これが人民を餌食にし、外国の承認を求め、外国が管理して集めた歳入を享受しようと、覇権を求めてお互いに戦い合っているのである。」(『満州国建国の正当性を弁護する』p.269)

このように中国は決議に違反して兵力を大幅に拡大していったわけだが、国際正義の観点からこのような国の主権を尊重することが優先されるべきだとは思えない。そしてわが国は、柳条湖事件以降経った数万の兵力で、わずか5か月の間に満州全土を占領してしまったのである。


満州事変直後においては中国の方を批判する論調が少なからずあったにもかかわらず、なぜその後、世界の多くの国は日本に非難の矛先を向けていったのだろうか。
G.ブロンソン.リーは、同上書で非常に興味深いことを述べている。

合衆国政府と種々の我が世論機関は日本にひどく批判的だが、それは日本が海軍制限条約の改訂を望まないからである。日本は2・2・2の同率条件が認められれば、日本は海軍を削減するつもりだと請け合っているにもかかわらず、我々が聞き知るすべては、日本が極東を支配し、我々の貿易を閉ざそうとしているということだ。…
 他の一面は最も浅薄な観察者でもよく理解できる。中国の外国貿易は現在、政府がその力を維持するための主要な歳入源となっており、それは過去七年間の二千五百万から三千万の人々の死の原因となっている。関税で集まったお金は軍隊維持のために費やされ、人々を食い物にして彼らの外国製品購買能力を破壊するのだ。我々は外国の法律も、アメリカ上院決議も干渉できない武器密売の光景をここに見る。あらゆる国が、このぞっとするビジネスの分け前を得ようとしている。彼ら”死の商人”は、増加する関税収入に担保された長期貸付で裏取引を行う一方、外交や政府の支持を得て、その特製品を売るのである。外国貿易が武器代金を支払うことになるのだ。
 世界は九か国条約に違反したとして日本を非難する。告発は自由である。しかし貿易と儲けの為に中国の条約違反に目を閉ざしたその他の七か国はどうなのだ?関税自主権を認められた中国は資金をつぎ込んで正規軍を百万から三百万に増やし、第一次世界大戦の戦死者の五倍の人間を殺すことを可能にした。日本は自衛のために条約に違反したかもしれない。しかし日本を告発する者は、つまらない貿易の利益を得んがために中国の条約違反を大めに見た廉で、世論という法廷の前では有罪を宣告されるのである。」(同上書 p.272~273)

内戦の続く中国は、欧米の『死の商人』からすれば極めて魅力的な武器のマーケットであったことは言うまでもないだろう。G.ブロンソン.リーは中国が大量の武器を買っていたことについてこう述べている。
「満州の張家の統治時代には、人々は銃剣を突き付けられ、労役の産物と交換に七十億ドルの不換紙幣を無理やり押し付けられた。その他の省では土地税が二十年から五十年先まで取られている。阿片の栽培と販売が幾つかの省の軍隊を維持する収入となっている。その他の方法でも人民はその抑圧者に財産を搾り取られているのだ。」(同上書 p.271)


このように収奪された資金のかなりの部分が武器弾薬や軍用車などの購入に充てられたことは想像に難くない。前回記事でわが国が満州の都市建設などのために投資した金額は17億円と書いたが、ドルに換算すると5~6億ドル程度である。張作霖・張学良の時代の満州では、その何倍もの金が内戦の為に使われた可能性が高いのである。

『死の商人』にとっては、争いが続く限りはいくらでも武器・弾薬を売ることができる。そして、もし中国の内戦の泥沼に日本を引き摺り込むことができれば、さらに儲けることができると考えていたのではなかったか。

しかしながら、中国兵よりも圧倒的に少数の関東軍が、たちまちのうちに満州を制圧してしまった。武器・弾薬をもっと売りたい彼らからすれば、関東軍が満州を鎮圧してこの地域が平和となることは決して好ましいことではなかったことは誰でもわかるだろう。


以前このブログで、大正8年(1919)から中国の排日が始まり、その背後に英米の勢力が活発に動いていたことを書いたことがある。
上の画像は昭和7年(1932)8月2日の中外商業新報の記事であるが、中国の日貨排斥運動を機にアメリカの対中国貿易が、日本、イギリスを追い抜いて一気に首位に踊り出たことが報道されている。アメリカが主張していた中国大陸の「門戸開放」は、中国に排日を仕掛けることで実を結んだことを知るべきではないだろうか。

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